【歴史】そのローマ教皇の死体はなぜ裁判にかけられたのか 9世紀の世にも奇妙な「死体裁判」
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■世にも奇妙な「死体裁判」、9世紀の混乱物語る異様な歴史の一幕
そのローマの漁師は、よほどたまげたに違いない。伝説によると、哀れな漁師がテベレ川で引き揚げたのは、元ローマ教皇フォルモススの死体だった。死後9カ月経った亡骸を掘り起こして裁判にかけるという、カトリック教会史上類を見ない異常事態の主役となってしまった教皇だ。その死体を川で見つけるなど、いったい誰が想像しただろうか。
フォルモススが死後に受けた屈辱の物語は、9世紀後半にイタリアで繰り広げられた権力闘争を象徴する歴史の一幕である。
当時の教皇のリストを見れば、ローマとバチカンはキリスト教の説く協調とは程遠く、いかに混乱の時代にあったかがわかるだろう。西暦872年から965年の93年間に、ローマ教皇は24回も交代した(896年から904年の間は、ほぼ1年に1人のペース)。政治的陰謀と政情不安に揺れていた教皇職には、教皇位の剥奪、投獄、そして殺害がつきものだった。
■皇帝をめぐる「王」と「公」たちの権力闘争
9世紀後半、イタリア半島の各地で繰り広げられていた激しい権力闘争において、ローマ教皇は中心的な役割を担っていた。カトリック教会とイタリア王国の守護者であるローマ帝国の皇帝が、ローマ教皇から帝冠を授けられる形で認められていたためだ。
西暦800年にカロリング家のカール大帝(シャルルマーニュ)が戴冠して以降、カロリング朝の王がローマ皇帝になっていたが、9世紀の後半になると広大なカロリング朝の領土は西・中・東の3つの王国に分割される。それとともに、スポレート公国など地方の国々が力をつけ始め、対立が激化していた。そこで、ローマ教皇はローマ帝国の有力な家同士の問題に堂々と干渉し、地方の権力争いに首を突っ込んだ。
フォルモススは、教会でのキャリアをスタートさせた頃から、こうした複雑な争いに巻き込まれていった。テベレ川の河口にあるポルト教区の司教枢機卿として、布教のためブルガリアへ教皇の名の下に派遣され、同時にカロリング朝や東方領土の中心であるコンスタンティノープル(現トルコのイスタンブール)との外交折衝を数多くこなした。また、分割されたカロリング朝の東の国王で、ケルンテン公でもあるアルヌルフを支持していた。この東の王国が、ドイツの原型となる東フランク王国だった。
だが、フォルモススの外交は上司には不評だった。アルヌルフはローマ皇帝につながるイタリア王の座も狙っていたのだが、時の教皇ヨハネス8世は、カロリング朝のように強い権力を持つ国の王がイタリア王の座につけば、ローマが独立性を失うと恐れた。そこで876年にフォルモススを破門して、教区から追放した。フォルモススと支持者たちは、腐敗と不道徳の罪で訴えられることを恐れてローマを離れ、のちにスポレート公となるグイード3世の庇護を受けた。
彼らはその後、アルプス山脈の南にあるロンバルディアの北部に数年間身を隠し、ローマでの状況が好転するのを待った。
883年、短期間在位した教皇マリヌス1世のもとでフォルモススは破門を解かれ、元のポルト司教に戻された。そして891年に死亡したステファヌス5世の後を継いで、フォルモススはローマ教皇に就任する。
続きはソースで
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/100300572/ph_thumb.jpg
ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/100300572/ そらアテナに逆らったからだろアニメ見たから知ってるわ よくわからんけどクリスマスが近い
今年も憂鬱な聖夜がやってくる >哀れな漁師
なぜ哀れ
人をとる猟師は名誉なことだろ 判決が出るまで遺体を塩漬けとかは江戸時代が終わるまで日本でもよくあった
為政者の都合で体裁のために死後裁判なんてのは世界中によくある話だろ たかだか9世紀に発見された骸が本人と同定できるほどの確実な科学的裏付けがあったとは考えられない こういう遺体を辱しめる文化は日本人にはちょっと理解できないな…… パヨクは天皇要らないんだから教皇なんてもっといらない すごい権力を持ってた時代もあった
皇帝が勝手に税金とって
教皇に怒られて冬の寒い中
玄関で一晩中 ひざまずかされた カノッサの屈辱って一人の女を巡って教皇と皇帝が争ったっのがそもそもの原因って本当なの?
ちょーくだらないんだが 現代への大きな転換点はハンザ同盟が担ったフランク王国だろ。 >>14
はあ?
日本にもさらし首と言う慣習があっただろ 人は賢いと左翼になり、賢いと勘違いすると右翼になる
--ウィリアム・ヴァン・へーゲン--- >>3
法王庁内部の腐敗を改革しようとしてたんだよね >>21
この人も何かされたんだっけ?
徳川時代の人でしょ確か? >>1
ローマ時代の教皇は「根比べ」で決めてたくらいの土人だからな
暑い夏にコタツとか入ってオデンとか食ってて、
最後まで出なかった奴が一位だから
もっとも自らが人類の罪を背負った奴が教皇とかやってたんだぜ >>2
ローマ皇帝を任命してない期間のローマ法王をローマ教皇という。
つまり地上のバチカン帝国の宗教的祭祀を執り行う神官であるのでね
だから皇帝の任命権があるのだな
皇帝を任命できるのは皇帝だけなので。
これを別の人間に貸与するとローマ法王となる
ちなみに法王というのは日本では仏教のトップに使ってたのがもともと
ローマ法皇って言い方もあるが、これが教皇と法王の両方を兼ねてる言葉でこれでもいい 時代は女性教皇ヨハネス(ヨハンナ)の少し後か
ずっと混乱してたんだなあ >>1
文章読んでから画像見たけど、要するに座ってる爺さんは死体なのか。
カトリック教徒も意外とキチガイなんだな。 >>7
本家本元のクリスマスを過ごせばいい
家族親戚とディナーを食べ、みんなでミサに行 閉嘴!
PRC Θδ`ノレ´ ) 弱肉強食是中共的掟あるよ!
*キリスト教 イスラム教 仏教も 全宗教を弾圧する中国
https://yamatoxx00xx.blogspot.com/2019/11/blog-post_25.html 双子の方を海の地下牢に幽閉すると後々戦争のタネになるぞ ソースにあるけど画像で死体に「異議あり!」ってやってるステファヌス6世教皇も死体を川に投げ捨てたことがフォルモスス支持者の怒りを買って、投獄された後絞殺されてる
教皇庁の権威を守る上でアルプスの向こうの東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)を頼る(干渉を受ける)か受けないかの対立が元になってるわけで、このあと何世紀もこの問題がイタリアの統一を妨げることになるわけだ >>2
平たく言えば、これまで「どっちもアリ」状態だったんだけど
今回の来日に合わせ、教皇庁側が日本のマスコミに
「今後、日本の報道では『教皇』に統一してください」と要請したから
グルジア→ジョージア、みたいなもん 死後9ヶ月も経ってて元教皇だとわかったのか
ミイラだったのかね? >>43
知らないけれど、一般庶民や一般聖職者には無い
衣服や小物が見つかったんじゃない? >>45
カノッサの200年くらい前
死体裁判の時代は、日本で言えば菅原道真の時代 >>43
墓に埋葬された前教皇フォルモススの遺体を後釜の教皇ステファヌスが掘り起こして教皇の服を着せて裁判にかけた
有罪が宣告された後平民の服を着せられて一旦埋葬されたが、再び掘り起こされて今度はテベレ川に捨てられた
死人を裁判にかけた後釜の教皇もその後フォルモススの支持者に殺害され、その後フォルモススの遺体は漁師の網にかかって見つかり、今度はちゃんと教皇として埋葬されることになった
川に捨てられて白骨化していただろう遺体がなんで教皇だとわかったかはわからんけど、裁判の後教皇が祝福に使う三本指を切り落とされたそうなのでそれが目印になったのかも
そもそもが東フランク王国の国王に「ローマ皇帝」の称号を与えるかどうかの対立とか、それを不服としたイタリアのスポレート公の差し金とか色々あってこういうことになったらしいがまあむちゃくちゃではある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています