我々の世界は、上の世界から見るとマンガのようにたたまれている、と仮定するといろいろ説明できる。
我々の消長、生殖、物理法則は、その作品の設定に過ぎない。
我々の意思はともかく(※後述)、行動の結果がすなわちストーリーとなる。
つまり我々の行動は造物主によって「描かれた」ものであり、自ら決断しているようで、その実決定論的である。

造物主とはいっても、聖人のような大仰なものではなく、観察の意図を持ったサイエンティストですらもなく、
つまりはマンガ家のような存在であるのではなかろうか。
我々が平和を願いつつも戦争がなくならないのは、上の世界にも読者がいて、彼らが喜ぶからである。

我々の1秒は、上の世界で1ページめくられたことに相当する。
当然緩急はあるが、我々は作品世界の住人なので等速で流れると認識せざるを得ない。
100ページ時点にいる我々は、それ以前の登場人物としての記憶および、
集合知としての「人類の記録」を認識している。未来は200ページ目のスナップショットである。
上の世界の住人は、本をめくる存在であり、ゆえに時間を順逆自在にシークできる。
我々の夢である時間旅行は、上位存在への何らかの介入であり、これがタイムマシンの本質である。

我々の世界を「作品A」とすれば、別のマンガ「作品B」がいわゆる異世界に相当すると考える。

マンガ本に対する破壊行為は意味をなさない。やはりこちらの世界同様量産されているからとも言えるし、
観察目的の実験系ではなく、あくまでも創作物であるからには動機が見いだせないためである。

創作された時点で、創作者の意図せざるところで、我々は自我を得る。
但し、行動すればストーリーとして決定論の中に嵌め込まれる。
真に自由なのは、行動以前の、自分自身だけの内心である。これが神の本質である。
神は決して、上位世界の存在ではない。

そう考えると、我々も創作めいたことはしているが、それをトリガーに、
知らずのうちに「宇宙」を作っているのではないか?

長文すまん。うまく伝わればよいのですがー