0001首都圏の虎 ★
2019/12/19(木) 18:46:03.37ID:2xx4DyME9歌舞伎町のランドマークというと、何を思い浮かべるだろうか。
「I LOVE KABUKICHO」の電光掲示板がひときわ目立つ歌舞伎町ハヤシビル、LEDのライトが光る歌舞伎町一番街の看板、ゴジラビルに風林会館に思い出の抜け道……。
警視庁23歳の美人巡査がヤクザに惚れてすべてを失うまで
考えてみるとキリがないが、そんな歌舞伎町ランドマークのひとつでもあるシネシティ広場に突如としてスケートリンクが現れた。
だれがいったいなんのために、ネオン街の中心にスケートリンクを造ったのだろうか。
52年前、歌舞伎町にはスケートリンクがあった
現在、シネシティ広場の目の前にある敷地では大規模な工事が行われている。
この場所には2014年まで、東急レクリエーション運営の新宿TOKYU MILANOと呼ばれる娯楽複合施設があった。
ミラノ座の閉館後、21ヵ月の間だけ「VR ZONE SHINJUKU」の暫定利用を経て、その跡地に再び東急株式会社及び株式会社東急レクリエーションが地上48階、地下5階のエンタメ・ホテルの複合施設を建設中だ。同社は、歌舞伎町1丁目(シネシティ広場前)の再開発に着手している。
歌舞伎町の歴史は戦後1945年までさかのぼる。
焼け野原となった新宿東部一帯を再興すべく、町会長の鈴木喜兵衛が復興の計画をした。当時の計画は劇場・映画館・演芸場・ダンスホールを中心とした繁華街を形成するものであった。しかし、物資が限られているという理由から娯楽施設の建設は見送られてしまった。
その後、1950年に現在の歌舞伎町エリアにおいて、「東京産業文化博覧会」が開催され、多くの施設が建てられた。その施設をそのまま、娯楽施設として転用したことで、繁華街としての歌舞伎町が始まったというわけだ。
ミラノ座やシネシティ広場はそれによって生まれ、1957年にはミラノ座に東京スケートリンクが完成。スケートといえば当時は若者にとっての娯楽という意味合いが強く、このスケートリンクのオープンを機に、歌舞伎町は若者の街という性格を強めていくことになる。
当時のスケートリンクは5〜6時間並ぶほどの人気を見せ、周辺には貸し靴屋や研屋がいくつも現れ、街は人であふれかえっていた。その後、ボーリングブームの到来でスケートリンクはミラノボウルへと鞍変わりし、2014年のミラノ座閉館にいたる。
つまりは、歌舞伎町をつくったといっても過言ではないスケートリンクが、52年の時を経て、期間限定(12月14〜25日)で復活したのである。
現在のシネシティ広場は暴力事件に売春婦
シネシティ広場はイベントスペースとして貸し出されているが、催しが行われていない日も多い。特に冬場はイベントごとも少なく、シネシティ広場は閑散としがちだ。夜にこの広場を訪れてみると、治安が良いとは言えない状況もうかがえる。
まず、ダンボールを地面に敷いて酒盛りをしている集団が毎日のようにいる。ほかにも酒を飲んでいる若者たちはいるが、この集団は暴力事件を起こし、警察や救急車が現場に駆け付けたこともあった。
広場に面した通りには海外からやってきた売春婦たちが立ち並んでいる。男性がその通りを歩こうものなら、腕をつかまれて援助交際を持ちかけられる。
そんな状況を見かねた、「歌舞伎町商店街振興組合」と「歌舞伎町タウン・マネージメント」の発案で今回のスケートリンク復活は始まった。そこへ、東急レクリエーションをはじめとする周辺企業の協力もあり、実現に至った。
歌舞伎町はさらなる街の健全化に挑んでいる。いままで歌舞伎町を訪れることがなかった客層を取り入れることで、街の賑わいを取り戻そうという狙いだ。
たしかに、シネシティ広場を人が滞留する場所にし、街の活性化につなげるには正しい選択かもしれない。
.
12/19(木) 10:01配信 現代ビジネス 全文はソース元で
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191219-00069255-gendaibiz-life&p=1