「お母さんに3時間ちょうだい。学校のものを全部片づけてくるから」

 ある土曜、そう言い残して子どもに留守番をさせ、北野香織さん(仮名、41歳)は都内にある勤め先の小学校に向かった。第3子を妊娠中、おなかの強い張りに耐えながら勤務していたが、産婦人科医から切迫早産(早産しかかる状態)の診断書が出たことで、「もう限界だ」と、産前休業の前倒しを決意。机を整理している間、携帯電話が鳴っても一切出ず、業務引き継ぎの書類を職員室に置いて逃げるようにして学校を去った。

 香織さんは、はじめは東北地方で教員になった。就職氷河期と重なるように、教員の世界でも当時は新卒採用が手控えられ、非正規雇用しかなかった。結婚後は夫が転勤の多い職業だったこともあり、そのまま非正規で働いた。最初は、産休・育休の教員の代替えとしての採用だった。

 非正規雇用といっても、6カ月ごとの雇用契約で「6・6(ろくろく)」教員と呼ばれた。4〜9月、10〜翌年3月の6カ月を区切りに契約を更新する。翌年度の採用が決まっていても、3月30日で雇用契約を終了させて1日の空白期間を作って4月1日から新たに雇用するということが繰り返された。これにより、通年採用より1回当たりの雇用期間が短くなることで賞与が低く抑えられるという仕組みを香織さんは後から知った。

 32歳で第1子を出産。第1子の出産では、「非正規は育休が取れない」と言われ、いったん退職。教員の仕事が好きだった香織さんは、生後7カ月で認可外保育所に子どもを預け、また非正規で職場復帰した。本来、非正規でも一定の要件を満たせば育休を取ることはできるが、「地方公務員の育児休業法」で6カ月ごとの雇用の非正規雇用である「臨時職員」は最初から育休の対象外になっているなど、非正規公務員の状況は厳しい。授乳しながらの勤務を経験したこの時、「2人目を産む時は育休を取ることができる正職員でありたい」と強く思った。

 夫の転勤で東京に引っ越し、教員の職を探すと「明日からでも来てください。今日の午後からでもよかったら来てほしい」と、すぐに正職員としての採用が決まった。第2子、第3子に恵まれて、育休は取れたが、復帰後の育児と仕事の両立は至難の業だった。

第3子を妊娠中、保育園に通う第2子の体調が悪くても、細かく病状を説明して懇願しないと、法で認められているはずの看護休暇を取らせてもらえない。高熱でも出ない限りはいったん保育園に預け、保育園から子どもの体調が悪いとお迎え要請の電話を学校にしてくれたほうが子どもの看護をしやすいという状況だ。保育園からの電話を取り次ぐことの多い副校長は授業中、「お子さん、お熱ですって」というだけで、香織さんが抜けた後の授業をどうするか助けてくれるわけではなかった。

 そもそも、この小学校で勤務が始まった初日、「ここは、子どもがいる人のくる場所じゃない」と上司からマタハラ発言があった。クラスで何かあればすべて担任の責任。他の教員とチームで解決、協力し合おうという雰囲気はなかった。働いている保護者に連絡をとるため、夜まで残業しながら電話をかける教員が多いが、香織さんには保育園のお迎えがある。やむなく、自宅から保護者に連絡をとるが、子どもが夕飯を食べているすぐ隣で、学校であったトラブルについて保護者に平謝り。そんな時に限って子どもが「ママ、ママ」と話しかけてきたり、ご飯をこぼしたり。きょうだい喧嘩が始まる。ついつい「静かにしなさい!」ときつくなると、子どもが泣いてしまい、収拾がつかなくなる。

 仕事を持ち帰り、子どもに夕飯を食べさせ、風呂に入れ、寝かしつけたらあっという間に夜9時を回る。ここでも、焦っている時に限って子どもはなかなか寝ない。イライラすると、余計に子どもが眠れなくなり、どんどん仕事をする時間が遅くなる。土曜も子どもを保育園に預けて仕事をすると、子どもが疲れて熱を出して出勤できず仕事が溜まる、という完全な悪循環に陥った。香織さんの元気のない様子を心配した教員は悪気なく「田舎に帰って実家に助けてもらって教員を続けたら」とアドバイスするが、帰ったところで非正規の採用しかない。

 校長は毎日授業を監視して回り、気に入らない教員には「授業案」を出すよう求めるパワハラ気質があった。通知表も校長がすべてチェック。所見欄の記入を2〜3回ダメ出しすることは珍しくない。書類作成のやり直しで土日に出勤することが常態化。個人情報保護の関係で、児童の名前が入っているような書類は持ち帰ることができない。平日の夜に残業できない分、香織さんは土日に学校に行って仕事をせざるを得なかった。


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2020.1.12 11:30
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