>>391
 幕末から明治にかけての文字環境には、もう少し留意して置かねばなるまい。大方の人は見た目の変化、例えば楷
書と草書の違いや文字連綿の有無に囚われがちな傾向がある模様。しかしこれらは表層の文字像が「違う様に見える」
だけであって、深層構造における文字知覚/認識は殆ど変わらない。欧文の例で云えばローマンもゴシックも筆記体
も、共に同一の深層文字像/認識へと収斂する様に。
 「殆ど」変わらないと書いたのは、例えば草書を楷書に書き換える場合、殆どの点画が複雑化して同一文字内に細
部の差異を発生させるからである。楷書の輪郭は細部に宿る一方、草書の輪郭は骨格へと沈潜したまま再び表層の形
に近接する。邉も邊も草書の形は同じ構造下で草略変化(行書水準を含む)の幅を持ち、草略の度が進むほど同一の
形となる様に。つまり草書における細部の省略は、楷書における骨格の細密化/分化と相補的に機能する(ドゥルー
ズの表現を借りると、省略は文字認識の差異化=微分化、細密化は差異化=分化に相当する?)。
 微視的な差異/特徴を文字骨格から捉まえて、草書の之と足を読み分ける類は難しい(真草千字文では如松之盛と
矯手頓足を参照)。どちらも同じ形で書かれたりする。こんな場合は文脈に任せて判別するのが古文書方面では普通
だろう。…くだくだしく書かなくとも、「見れば/読めば分かる」で済ますのが書教育では常套だった。しかしそれ
では現代人に通用しない模様。或いは稽古が通用しないのかも知れない。あたしゃ書塾の稽古で無心に慣れるうち「自
然と読める様になった」側なのに、畑違いの哲学/言語学用語まで巻き込む羽目になっている。
 これでは却って分かりにくくなるかも知れない。しかし楷書を基準に草書へ遡行すれば、そうとも考えてみたくな
る。骨格の外延に発生した細部/点画の厳密さは手に負えない。楷書の手口は「規範なき不自由」に見えるものを新
たな規範で縛る。文字認識が雁字搦めになって、差異ばかりが罷り通る。草書や仮名はもっと自由だった。規範の幅
(差異の内包)自体がもろとも自由にうねり流れた。だから連綿も読み書き双方にとって必然だった。連綿の切れ目
が文脈の仮象を呼吸する場合もあれば、そこに別のニュアンス〜言葉自体とは別の音楽的重層性が宿る場合もあった。