0001記憶たどり。 ★
2020/01/31(金) 13:52:22.88ID:B2Y5UjMS9再開発で高層ビルの建設計画が相次ぐ福岡市・天神。天神の“元祖”高層ビルといえば、
天神交差点の北西側に立つ「天神ビル」だ。当時の先端技術を結集し、1960年6月に完成したビルは、
「摩天楼」などと呼ばれ全国から注目された。築造から60年、天神の中心で今なお存在感を放ち続けるビルの軌跡をたどった。
メインエントランスがある東側から天神ビルに入ると、外壁に「TENZIN BLDG」とローマ字でビル名が表記されている。
一般的には「Tenjin」だ。なぜ違うのだろう。
「名前に『天神』と付けられた最初のビルが天神ビルとされる。ローマ字表記もまだ統一されていなかったのだろう」。
近代史研究家で企画プロデューサーの益田啓一郎さん(53)が説明してくれた。もともと天神の一帯は
「天神町(てんじんのちょう)」という地名だった。「天神」という呼び名を使った先駆けが、天神ビルだったそうだ。
天神ビルは、戦前に北部九州に電力を供給していた九州電灯鉄道の本社社屋として建てられたビルを引き継いだ
九州電力が建て替えたものだ。
「高度成長期で、年々増えるオフィスと電力の需要に応える狙いがあった」と九電子会社でビルを所有、管理する
電気ビル(福岡市)の梶原俊明事業開発部長は話す。建て替えに伴い天神地区に電力を供給する変電所を地下2、3階部分に造り、
旧ビルから大幅に増床した地上11階建てのビルは高さ62メートルとなった。当時のビルとしては、高さは国会議事堂に次いで
全国2位、延べ床面積は神戸以西で最大規模だったという。
独自工法で工期18カ月
工法も独特だった。建設した竹中工務店は、まず地下3階から地上1階の部分を地上で造り、重みを利用してそのまま地下に沈める
「潜せん函かん工法」を採用。都心部のため周辺に斜面を作って地下を掘削するのが難しい課題をクリアし、沈める間も地上部の工事が
進められるので工期を短縮できる利点があった。着工から完成までは18カ月。「これだけの規模のビルをこの短期間で建てたのはすごい」
と1級建築士の資格も持つ同社の岡本庄平部長代理は先人たちの偉業をたたえる。
外装や内装も凝っていた。外壁には茶褐色の有田焼のタイル約85万枚を使用。外壁から浮き出るように付けたステンレス製の窓枠も
「従来の建築常識にはなかった大胆なもの」(電気ビル30周年史)。地上1階の外側に設けたアーケード空間や地下のレストラン街も
当時は珍しかった。設計は国立劇場を手掛けた岩本博行氏が担当。東京タワーなどの設計で知られる内藤多仲とガウディ研究の
第一人者だった今井兼次の両氏も顧問に入っていた。
時代は64年の東京五輪に向けて開発が進んでいたころ。益田さんは「天神ビルの技術は、東京をはじめ各地で建設された
高層ビルに生かされた。全国から視察が相次いだ」と解説する。
そんな注目のビルには大手企業の支社や営業所がずらりと入居。ビジネスの拠点として周辺の開発が進むきっかけになった。
カルチャースクールや結婚式場、「九州一」とされた総合美容室などが入っていたのも特徴で「文化発信の機能も担っていた」と梶原氏は語る。
市の再開発促進事業「天神ビッグバン」を受け、周辺ではビルの建て替えが進む。天神ビルの1年半後に完成した福岡ビルも、
再開発が決まった。九電は天神ビルについて将来的には建て替える意向を示しているが、現時点では「未定」とする。
部分的な耐震補強もしており、2005年の福岡西方沖地震でも「ほぼ無傷」だった。「設備も適度に更新しており、現役バリバリ」
と梶原氏と岡本氏が胸を張るビルは、まだしばらく天神のランドマークとして親しまれそうだ。
現在の天神ビル。かつては屋上の展望台を開放して天神の風景が眺められた
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