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「貧困と飢餓」

土地の集約的耕作と【輸出用換金作物の大規模栽培】は、
白人の資本投下によるプランティションで行われたが、
それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。

そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、
完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、
【従来の自給型農業が決定的な変化】を被った。

その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。
ジャワでは人口33万の町が12万に減少し、
【インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加】し、1877年の【南インドの飢饉では5百万人が死亡】し、
1943年での犠牲者は【ベンガル地方だけで340万にも達した】