【考古学】弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎県大村市で1700年前の鍛冶工房の跡が見つかる (動画あり)
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https://www.asahi.com/articles/ASN2674JRN26TOLB001.html
約1700年前にあたる弥生時代末ごろの鍛冶(かじ)工房跡が、長崎県大村市今富町の住宅地で発掘された。
きりやナイフなどの小型の鉄製品を鍛造していたとみられる。
この時代の鍛冶工房跡の発見は、県内では壱岐市のカラカミ遺跡に次いで2例目という。
調査した大村市教育委員会が6日、報道陣に公開した。場所は市内にある「帯取遺跡」の一部。
市教委によると、7メートル四方の竪穴式建物跡で鍛冶炉とみられる跡が四つ見つかった。
いずれも高熱を受けたことを示す白やオレンジ色に土が変色し、金属反応があった。一隅にある三つは、水を遮るためとみられる溝に囲われていた。
棒状の鉄器片や、金属が付着してたたいた跡のある石、研磨に用いたとみられる砥石(といし)なども出土した。
出土した土器を根拠に、工房の操業時期は弥生時代末〜古墳時代初頭(3〜4世紀)と断定。
炉は下部構造を持たない種類で、あまり高温にできないため、武器などの大型鉄製品は製造できなかったとみられるという。
市教委の学芸員柴田亮さんは「地域に密着した『ムラの工房』だったのではないか」と話す。
周辺で小型の鉄製品が普及していたのは間違いなく、一定規模の集落があった可能性があるという。
同時代の鍛冶工房跡は、全国で数十例が確認されているという。
11日午後1時半から現地で説明会が開かれる。無料、小雨決行。
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200206005102_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200206005105_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200206005106_comm.jpg
別ソース(※リンク先に動画あり)
1700年前の竪穴住居跡 大村市で鍛冶工房の跡発見
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200206-00003422-nbcv-l42 学校で習った時はとにかく縄文弥生は未開の土人で中国様韓国様に文明をお教えいただいて、
やっとどうにかなったみたいなストーリーを習った記憶があるのだが、
今分かってる限りだと全く違うなこれは。 >>5
実際は逆
古代縄文人が世界を旅して4大文明を作り上げた 教えてもらったじゃない まず彼らが移民してきてやったんだ そこに住んでたのも彼らの可能性が高い 魏志倭人伝には倭人は鉄の矢じりを使用していると書かれていて、
魏志韓伝には倭人が半島南西部の弁韓まで来て鉄を採っていると記されている
さて、ではこの図を見てくれ、弥生時代の鉄鍛冶工房跡の分布図だ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
まさかとは思うが、これを見てもまだ邪馬台国がどの辺りにあったか分からないような知恵遅れはこのスレにはいないよな? >>2
いやいやwwwww
>あまり高温にできないため、武器などの大型鉄製品は製造できなかったとみられるという。
ここを読めよwwwww
九州説は終わったんだよwww >>8
違う。邪馬台国では無い。邪馬壹國だ。
よって読みはヤマイツとなる。断じてヤマタイでは無い。 >>8
そんなバカがいるわけないだろうHAHAHA! >>8
やっぱり九州だったんだね
関西人どもはどうせ嘘をついているに違いないと常々思っていたよ 此処から近畿まで輸送してたのか
或いは諫早を陸送で抜けて有明海から邪馬台国へ輸送してたのか 鍛冶の語源
金打ち(カネウチ)→カヌチ→カジと訛っていったらしい >>10
残念でしたw
富の原遺跡 長崎県大村市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
> 1980年(昭和55年)以降の発掘調査で竪穴式住居跡(弥生時代)、甕棺・石棺墓、祭祀遺構等が発掘され、土器・石器等とはらんで国内でも例の少ない
> 鉄戈と鉄剣の出土をみた。
> 特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、
> 刃部には真鍮を削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
> すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された 道具作り集団といえば弥生前期には
奈良盆地の唐古鍵古墳の前進はあったし ていうか長崎の職人集団が作ってたのナイフだけなの?
唐子鍵と違って多彩じゃなかったのかな これは小規模集落で日用品程度の物を造っていたと推測されるものが見つかったという話でしかない
あまり話を大きく膨らませるなよ >>22
発掘か出土しないとなんとも言えない
ナイフは稲刈りに使ってたろうし、畑を耕す鍬的なのもあったかもしれない >>21
道具作りとか言い換えちゃってw
鉄器じゃないだろw
>>8を見ろ、お前ら畿内説はもう終わったんだよ >>26
出土してないだけだ!って言い始めかねないからそこまでにしといてやれよw 夕方のクラスター願望チョンw
330名無しさん@1周年2020/02/07(金) 17:31:45.69ID:OYJ7kDj00>>366
>>318
逆だ。アイヌはシャモの白さと体毛の少なさに憧れてた
実際、北海道で色黒な人はアイヌ混じりが多い 畿内説の重大な欠陥は、邪馬台国=大和朝廷という前提がある事。
だが倭人東夷伝魏志には邪馬壹國と書かれている。 ヒミコは真珠を魏に献上しました。
弥生時代における天然真珠の産地は大村湾以外には有りません。
イホツ・ミスマルノー・タマとはすなわち真珠のことでしょう。
この大村こそ魏志倭人条に出てくる五百木国の領域、五百津入彦の本地でしょう。 朝鮮半島からもたらされた瓦質土器(がしつどき)や朝鮮系無文土器(ちょうせんけいむもんどき)が発見された
韓神(からかみ)遺跡で縄文人を抹殺するナイフ量産の痕跡が 誰か>>ID:BiQ3EDl10にツッコミ入れてあげて… >>23
村じゃなくてもだよ
各都道府県ごとに車庫証明いらない地域・地区が決められてる 海洋勢力の本拠地を村おこしのために畿内や九州の内陸部に求める茶番 渡来系弥生人は先進的でナオンにモテモテだったろうからうらやましいよ。
俺たちジャップ祖先の縄文原人はまだ毛皮をまといこん棒を振り回していただろう、ああ、恥ずかしい。 奈良から出土した鉄製品の総量は離島の壱岐から出土した鉄製品の1%にも及ばない。 3〜4世紀の長崎だと江南・倭人文化だな。
半島はまだ南が馬韓・弁韓・辰韓のころ。
百済や新羅もあることはあったがまだ地図の描かれないような小国。
ツングースも北東部から南には降りてこない。
倭人とシナ人(特に江南人)の天国。
本州では瀬戸内海航路が拓け、近江や中部地方も存在感を増している時 弥生って1900年の李氏朝鮮と同じレベルの染色技術の時代と思っていたんだが加治屋があったのね…
染色技術だけ弥生でその他は石器時代と思っている
掘っ立て小屋に石器道具身内のみの劣った社会制度
だけど糞尿にまみれ糞尿を食している時代は思いあたらないな…原始時代でさえ糞尿は食べてないと思うの >>6
どうでもいいから韓国にかかわりたくないろくなことにならない この時代まだ青銅器しか無かったんじゃないの?
弥生人が鉄なんて作れるのか? この工房の職人であった打増粕が採掘した鉱物を用いて作った剣が後のダマスカスソードになったのは言うまでもない 鉄を作るには結構な量の木材とマンパワーがいる
弥生末の福岡の炉は平野から離れた山間部の方に点在してるし
ここもそのパターンで作られたやつじゃね >>8
淡路島の製鉄跡すら載ってないって、どんだけ古い資料なんだよ。 >>49
輸入の鉄製品そのものは弥生時代前期には北部九州と近畿に入ってる
近畿地方は数としては少なく、弥生時代後期になってようやく増えてくるが、その頃に小規模ながら製鉄が
できるようになり、普及してきたと考えられている
よって、北部九州は弥生中期頃には製鉄を始めていたはず
いっぽう、青銅器は既に縄文時代から輸入製品はあるが、列島で作るようになったのは弥生時代中期に入ってから
そして様々な種類の武器や祭器が一気に増産されるが、後期になり、鉄製品が増えてゆくに従って
どんどん減少し、中国から来た銅鏡(そのコピー鏡も)は大流行し古墳時代中期頃まで残ったものの、国産の
青銅器は一部のアクセサリー類などを除くと弥生時代末頃までには廃棄されてぼ消滅する
大量の銅鐸や銅剣が出土した出雲荒神谷遺跡なども廃棄された遺跡の一つ 34名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:45:34.24 ID:gpRpZ7pD0
昨年の秋の鳥取県の青谷上寺地遺跡の結果は興味深かった
父から引き継ぐY染色体からは縄文人系の配列が出て
母系のミトコンドリアDNAが渡来系だったという分析結果で
支配層を表すY遺伝子が縄文系だったからな
朝鮮人には非常に残酷でショッキングな事実だった
35名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:46:16.38ID:j1MuFtQ+0
大陸から女をさらって日本に連れてきたでいいの?
47名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:56:12.48ID:zpp0EZIC0
>>34
あの遺跡でわかったことっって、
縄文人DNAいっぱいの日本列島人の縄文人や弥生倭人が半島の入植地と往来している中で
「豊かな自然環境のあなたの故郷に連れていってください
もうこんな緑の少ないハゲ山ばっかりで、豚の脂を体に
塗って冬を耐えろ、 臭い血の付いた動物の肉ばかり
食べさせられて、 毛穴まで臭くなってみたいなDVだらけの
半島の生活はもうコリゴリです。
おいしい魚介類や和布やお米が食べたいです!」
と懇願する半島女子たちを山陰に連れて来てあげただけのことでしょ 24名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:33:50.68ID:5ZdreiDl0
一か月前くらいに発表された遺伝的近縁の色合い図
では結局韓国よりも、 台湾やフィリピン方面の方が日本人に近いって判ったんだよね
29名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:38:29.88ID:es2WkNCf0
>>24
発表解説見たとき、くる日もくる日も
日本人=朝鮮人 って繰り返してる
在日韓国人キチガイ工作員が可哀そうに思えて
仕方なかった
30名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:38:45.60 ID:PJPpHbfW0
朝鮮人には関係無い話 31名無しさん@1周年2019/06/15(土) 20:40:50.74ID:/dwvVig30
>>29
在日台湾人は韓国人とまるで違うよ
やっぱり日本人に近いね
在日台湾人が今までも狂ったように
現代日本人 ≒ 韓国人ニダ!!
みたいに、 現代日本人 ≒ 台湾人 とか絶叫してるの
見たことない
きっと台湾人としての自然な誇りがあるからだよ
やっぱ韓国人って頭のオカシイ人種か人間未満だね
34名無しさん@1周年 2019/06/15(土) 20:45:34.24ID:gpRpZ7pD0
昨年の秋の鳥取県の青谷上寺地遺跡の結果は興味深かった
父から引き継ぐY染色体からは縄文人系の配列が出て
母系のミトコンドリアDNAが渡来系だったという分析結果で
支配層を表すY遺伝子が縄文系だったからな
朝鮮人には非常に残酷でショッキングな事実だった 349名無しさん@1周年 2019/04/27(土) 11:26:35.85 ID:J2Yk4v8A0
>>338
古代史の最後のパズルは出雲朝廷の存在とその出自
出雲朝廷の存在がハッキリし、彼らが朝鮮人であることがわかるとすべてがつながる
もはや朝鮮半島にむかって毎日礼拝をしなければならないだけの事実がでてきたということだ
389名無しさん@1周年 2019/04/27(土) 11:38:23.61ID:7Q4r/hXI0
>>349
出雲の大名持神の祭祀はその開始にも
南海のセグロ海蛇という豊穣神待ちなんだけど、
それがどういうふうに朝鮮半島の勢力と絡んでるの?
いっしょに国を開発した大物主神も三輪山に祀られる
蛇神で金印の蜷局を巻いた鈕だしね
408名無しさん@1周年 2019/04/27(土) 11:43:56.58 ID:c/CUrXOr0
>>389
朝鮮半島はまるで関係がないね
セグロ海蛇は、出雲人が神迎えの出雲大社の神在祭、別名御忌祭の神事の主役
南太平洋、南シナ海、琉球列島などに棲息する海ヘビで朝鮮半島になんていない
444名無しさん@1周年2019/11/11(月) 00:09:30.02ID:0S+UDbW40
769名無しさん@1周年2019/08/30(金) 18:46:23.91ID:bFBO74PF0
>>612
日本の神道祭祀関係でいうと
古代から宮殿内には半島蕃族の好物の肉類は
持ち込み禁止
御贄については縄文人や弥生倭人の時代そのままに
魚介、稲、縄文雑穀、日本酒だけで、 比較的半島から
近隣距離の出雲を例にとると、日御崎の海人が捕る
アワビや盾縫の紫菜という海藻が特別な名産品として
宮中では有難られた
そのケルプは大型の海藻だが 出雲神道の祭祀で重要なのは
背黒海蛇と 海藻
海藻を盛って出雲神に献上する >>54
あの遺跡でわかったことは、縄文人は戦争しないというのは間違いということ。
青谷上寺地遺跡は弥生時代最大の戦乱跡地でも有る。 >>1
帯取遺跡ってことはキリスト教の帯取殉教地の近所なんだね 調べた
カシ、ナラ、クヌギを木炭にして密度が同じの1本で
製鉄の最初から最後まで行うのが焼きムラがなくていいんだって
古代の人はあちこちの山をしらべて
カシ、ナラ、クヌギの巨木がたくさんある近くに製鉄炉を作ったのかも >>55
その辺の話で先日韓国のネットでスレが立って翻訳されてたな。
日本人が東南アジア人に近いと言う事で。
しかしそれでも未だに「倭国は朝鮮の征服王朝が建てた国だから日本は韓国の領土」
なんだとw >>61
ん?青谷上寺地遺跡の戦乱跡が弥生時代で最大のものだよ。
それ以上のものは今の所発見されてない。 >>63
戦争跡というのは未だ見つかっていないが倭国大乱に当たるようなものを言うのだよ
お前が戦乱跡と言ってるだけだな
戦乱?
何の戦乱だ?
地下水などのおかげで脳などのが奇跡的に保存状態が良好だったということで
知られるわけだがその他の遺物も価値が高いものが多い
青谷上寺地遺跡の規模は襲撃跡だ
あの程度の規模は四国にも大阪南部にも複数ある
だが戦乱跡とは考えられていない
遺跡の規模単位の襲撃や競り合いだ
あえて例えると近世でいえば水利で年中ぶつかっている村対村が
とうとう奉行所の裁定待たずに滅ぼし合うくらいの規模だな >>8
九州では村にも鍛冶屋がいたというのに畿内のクソ田舎ときたら 邪馬台国が九州じゃなかったとか思ってるバカいんの? >>64
襲撃だと言いたいのならそれでもいいが、青谷上寺地遺跡の109体の遺骨に匹敵するような痕跡は他のどこからも見つかっていない。
倭国大乱にしても、その痕跡はどこにからも見つかってない。 >>67
いるわけねーじゃん
畿内とかいうのはただのネタだから
釣られんなよ 奈良の弥生遺跡からは鉄製のナイフ(刀子)は全く出土していない、と言うよりも
関西地方からの出土は全く無い。弥生時代の関西地方が如何に遅れていたかが判る 日本の古代史はとにかく文字を持たないから文明は無かったという日本の考古学者のアホ共
言語や文字持たずにどうやって集落作ったり土器などの統一したデザインの物を作れるのか教えて欲しいわ 九州北部に邪馬台国はないよ
水行10日陸行一月しないといけない >長崎県大村市今富町
大村湾の東部だろ
末盧国からまっすぐ南に千里以内で着くじゃん
水行いらないじゃん
伊都国行ったら遠回りじゃん
大好きな魏志倭人伝に書いてることをおろそかにするなよ九州 歴史書魏志の倭人伝は帯方郡から九州北部に来た
2人の魏の使者、梯儁と張政の書いた報告書の原文を変えずに
魏に仕えた陳寿がまる写して注釈を加えたものと考えられる
魏の役人たちは優秀で第三者が読んで理解できるように書いており
曲解の必要は無い
彼らは公的組織の役人であるがゆえにわかりにくい書き方はしない
そのまま読めばいい
ただまじめな梯儁に対して張政は目立ちたがりで文体を変えたりしているが
それは気にせず内容をそのまま受け取ればいい
おそらく係長、せいぜい課長クラスの張政も立場はわきまえてる
つまり放射説とか反時計回り説とかは
魏志倭人伝に書いてることを何とかして邪馬台国を九州にしようと
悪あがきして考えた曲解であって
魏志倭人伝はそのまま読んで問題ない
ただそうなると狗奴国の方角とかおかしな部分がでてくる
仮に奴国の南にある狗奴国の方角が合っているとすると
邪馬台国から北側にあると書いてる国々が敵国狗奴国と重なり
おかしなことになるが
方角を変えて邪馬台国の西側にある国々と変えてみると重ならない
一部の方角だけを変えた疑惑が発生したよ
方角だから漢字一文字を変えるだけの簡単なお仕事
そしてできたのはあの部分の報告書を書いた張政
当時魏は呉と蜀と戦っていたけど
報告書の3ヵ所一文字ずつを変えるだけで邪馬台国の位置が
敵国呉の都の建業の西に来る
目立ちたがり張政は建業包囲作戦提案のために
自らが書いた報告書の3文字を変えたんじゃないか これは張政にとっても危険な賭けだよねえ
ばれたら立場はない
ただ3文字だけなので間違えましたで済む可能性も残してる
あとで別の魏の使者が倭国にきて
3文字の間違いがばれても言い訳できる自信があったのかな
それとも今後使者が行くことは無いとわかってたか
実際来てないし
建業包囲作戦も採用されないと分かってて出した可能性もある
かなり長く帯方郡を留守にして目に見る実績が必要だったとか
それで建業包囲作戦のプレゼンのために3文字書き換えた >>79
陳寿は魏に仕えた経験は無いですよ。
陳寿ははじめ蜀漢に仕官してたけど、蜀漢が滅びた後は西晋に仕官したとされてる。 >>77
まだこんな事言ってるバカが居るw
畿内説は本当に周回遅れだな
> 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> これを押さえておかないと正解には辿り着かない
>
> 【用例】
> 通鑑釋文辯誤卷六
> https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
>
> 【嘉興府志】
> https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>82続き
> 74 :日本@名無史さん :2019/08/23(金) 00:13:43.71
> >>73により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
> 同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
>
> なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
> 20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
> そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
>
> そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
> 彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
> なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
> そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
>
> つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
> 水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる また関東人のゴミカスチョンが九州と近畿煽って悦に入るスレか 水行読み替え説だと、邪馬台国が行方不明になる問題も有るけどね。 >>86
>>83をちゃんと読めば行方不明になんてならないよ
>>8の分布図ともちゃんと一致する
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>42
渡来系弥生人と朝鮮半島民族はほとんど関係ない >>87
邪馬台国は読み替えだと、伊都国から南に水行で10日、若しくは陸行で一ヶ月。
仮に糸島市の平原遺跡遺跡あたりを起点として、南に水行10日若しくは陸行一ヶ月って何処になるの?
伊都国から南側は陸地だし、川を遡る事になるけど、どの川を遡上したのかな?
遡上して1/3もの時短になるほどの水量の川が今なくなってるとは考えにくいよね?
川沿いを歩いたとしたら、わざわざ陸行で3倍もの日数をかける意味がないしね。
だから読み替え説だと、邪馬台国は行方不明になる問題があると書いた。 >>83補足
ちなみに魏志倭人伝の行程の文章もよく見ると書き分けがされている
放射読みと言うといかにも特殊な読み方のように聞こえるが実際はただの箇条書きに過ぎない
ある地点から複数の目的地への行程を箇条書きにすると地図上では放射状のルートになるというだけ
> 104 :日本@名無史さん :2019/12/11(水) 20:23:40.04
> >>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
> わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
>
> 連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
> 放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
>
> ・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
> ・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
> ・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
> ・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
> ・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
> ・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
> ・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
> ・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
> ・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
>
> 動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
> つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
> 上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
> まとめると
>
> 帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
> . . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
> ルート分岐@ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
> ルート分岐A ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
> ルート分岐B ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
>
> という構造 >>91
>>87に地図があるだろ
伊都国の南は背振山脈でまっすぐ陸行は不可能だ
陸路で行きたければ太宰府方面から迂回しなきゃいけない >>95
わざわざ水行で船で遡上出来る川ってどこ?
水行、渡海の区別で川沿いを10日歩いて行けば着くなら、わざわざ遠回りの歩いていくルートを書く必要がないよね? >>96
>>87の地図に書かれていると言っただろ
メクラなのか? >>97
ナニ川を南に10日遡上して、現代で言うどこが邪馬台国なのか。
ただそれだけ書いてくれたら良いだけよ? 三国時代の後の晋の時代あたりだから大陸沿岸の呉の残党でも日本に逃げてきたのかね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています