>>718
勘違いしている人が多いが、GHQに関係なく皇籍離脱は敗戦前から決まっており、遅かれ早かれ
伏見宮系統の旧宮家は全員皇籍離脱していたというのは間違い。

その説が語られるとき、根拠としてよく引き合いに出される大正9(1920年)年に作られた
「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」は、ある時期が来たら自動的に皇族を臣籍降下(皇籍離脱)させることを
定めたものではない。あくまで「長子孫の系統四世以内」(伏見宮系統の皇族は邦家親王の子を一世とする)を除き、
満15歳以上の皇族は、自ら情願(願い出)しない場合は、勅旨(天皇の意思)によって臣籍降下させると、
臣籍降下の対象範囲を具体的に示した内規にすぎず、正式な法律ではない。

情願にしろ勅旨にしろ、実際に臣籍降下させるかどうかを決めるには、明治40年制定の皇室典範増補第5条によって、
皇族会議と枢密顧問の諮詢(しじゅん。意見を求めること)が必要とされていた。つまり臣籍降下の対象者が
いた場合でも、自動的に降下を行うのではなく、その時々の情勢(天皇家直系の皇位継承者の有無など)に応じて、
最終的な決定には、裁量の余地が残されていた。

明治維新以後終戦までに、自ら情願して臣籍降下した皇族は10数人いるが、全員が宮家の嫡子ではない2男より下の者だ。
そもそも明治維新までは、皇統の直系にしても、傍系の宮家(世襲親王家)にしても、嫡子以外の男子は
適当な年齢になったら出家して仏門に入る、後継ぎのいない他の宮家の養子になる、あるいは臣籍降下して
後継ぎのいない摂家などの養子になることになっており、無制限に皇族の数が増えるのを防いでいた。
こうした伝統から、嫡子以外の臣籍降下については傍系の宮家の間でもそれほど抵抗がなかったと思われる。

結局、勅旨+皇族会議及び枢密顧問の諮詢による強制的臣籍降下は一度も対象者が発生することなく終戦を迎え、
1947年にGHQの指示により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を
維持できなくなったことから、伏見宮系統の皇族全員が皇籍離脱を余儀なくされた。そのため、日本が定めた法規によって、
実際にどの程度の臣籍降下(皇籍離脱)が行われたのかは不明のままである。