【邪馬台国論争】九州?近畿? 古代史最大の謎に挑む シンポジウム「邪馬台国の今」
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国論争が残る「吉野ケ里遺跡」と「唐古・鍵遺跡」の両面から議論を交わした記念シンポジウム=佐賀県立美術館ホール
https://saga.ismcdn.jp/mwimgs/e/6/-/img_e6ecea63d93ef406628ab589e1349ced777937.jpg
邪馬台国はどこにあったのか−。古代史最大の謎に迫るシンポジウム「邪馬台国の今」が2月、佐賀市の県立美術館で開かれた。九州説と近畿説それぞれの立場から、「吉野ケ里遺跡」と奈良県の「唐古・鍵遺跡」の発掘を手がけた専門家が、最新研究を踏まえて邪馬台国論争を解く鍵を探った。
【パネリスト】
藤田三郎氏(奈良県田原本町埋蔵文化財センター長)
七田忠昭氏(佐賀城本丸歴史館館長)
高島忠平氏(佐賀県芸術文化協会理事長)
【コーディネーター】
内田信子氏(学校法人旭学園理事長)
■内田 吉野ケ里フィーバーから30年。当時、私はサガテレビの記者だったが、魏志倭人伝、邪馬台国、卑弥呼という三つのキーワードのパワーはすさまじかった。当時の思い出を。
高島 これでやっと近畿説と対等に戦えると感じた。魏志倭人伝の記述と極めて符合する遺構のまとまりで、(弥生時代研究の権威)佐原真さんに裏付ける発言をしてもらって一挙に盛り上がった。
七田 新聞社の記者たちが邪馬台国と結びつけ、何とか遺跡を残そうという気持ちがうれしかった。これで遺跡が残るなと感じた。
藤田 巨大な遺跡を保存するのは難しいと実感していたので、吉野ケ里はすごいインパクトだった。遺跡全体を保存する道が開かれた、最初のケース。きっちり前向きな波に乗せていく力が重要だと思った。
■内田 現在の邪馬台国論争を整理してほしい。
高島 今日の邪馬台国論争には三つある。「九州説」、「近畿(畿内)説」、そして九州説から出てきた「東遷説」だ。日本の考古学は近畿説が主流であり、九州説は傍系的と位置づけられている。
(近畿説の裏付けとされる)三角縁神獣鏡は、卑弥呼が使者を送った巍の年号が銘に刻んであった。だが、三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土していない。
また、弥生時代には各地に独自の政治勢力、王権が成立していた。そこで、出雲や筑紫などの勢力が倭国を作り、奈良に都を置いたという考え方が出てきた。
一方の九州説。まず、環壕集落に中国の影響が色濃い。戦略物資である鉄を輸入・流通させるシステムは九州・山陰が主体で、そこに近畿は組み込まれていない。さらに、九州は圧倒的に国際性が高い。
■内田 唐古・鍵遺跡や吉野ケ里遺跡から出土した建物について聞きたい。
藤田 なぜ弥生時代に、大きな柱、それもケヤキにこだわる必要があったのか。それは、王権のルーツになるような神聖な柱だったからだろう。いろんな集落に大型建物があるわけではなく、象徴的に建てられたと考えられる。
七田 吉野ケ里の北墳丘墓と祭壇は、ほぼ南北の線で結ばれている。南北線に沿って都城が作られた、長安の考え方が入ってきたのではないか。
その南北線の延長線上に普賢岳がある。普賢岳は火の山、火の鳥。つまり南に朱雀という、壮大な空間意識の元に作られている。
■内田 邪馬台国はどこにあったのか。何が出てくれば決着するのか。
藤田 まずは卑弥呼がもらった金印だろう。
なぜ畿内が重要かというと、その次の時代を考えないといけないからだ。大和政権がどうやって成立していったかが、邪馬台国を解く鍵だ。
広大な奈良盆地の生産力がポイントになる。巨大な環濠集落を作るだけの土木技術、労働力の投下、これが次の政権、都を作る力になっていく。それを支える地盤が、大和には充分あった。邪馬台国は奈良盆地の「南和」地域だろう。纏向遺跡も含めた10キロ四方くらいの範囲と考えている。
七田 やはり金印。さらに銀印も10個もらっている。私は邪馬台国を大きく見るか、小さく見るかだと思う。実は巨大な国ではない。農業生産に適した、鉄も入る、中国の文物も入るという国だっただろう。
島 もうひとつの鍵は「封泥」だ。贈り物は必ず授けた者の前で開かれた。封泥という特殊な粘土で封じられており、そこに皇帝爾印と印刻がある。封泥のかけらが出てくれば、そこが卑弥呼がいた場所と特定できる。吉野ケ里発掘調査があらためて始まるので、この封泥か金印が出てくるのではないかと期待している。
(続きはソース)
3/6(金) 16:15配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200306-03496714-saga-l41 あと最古級のスズリとか出てるわな九州から
紀元前まで遡る
また古代のスズリの大多数は福岡出土だ >>849
東遷も東征もない
考古学的に否定済み
九州倭国と近畿日本は別の国 大宰府掘り返せばごりごりと木簡出てきて
邪馬台国なんざ即特定出来そうなんだけどなあw >>816
同じ型から作ったと推定される鏡は何枚か違う地域で出てるよ。
型が見つかったっていう話は俺も知らん。 女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
女王国から船で南に行くと侏儒国(種子島)がある
女王国の南に敵対する倭奴国アリ
畿内説ってのは歴史捏造だ 太宰府は既に掘り返されてるけど九州倭国の存在を確認できるものは無いね
九州国立博物館が太宰府学なんてやってるから見つかれば喜んで公表するよ 畿内説は変な意地を張らずに、
九州説に統一した方がいいと思うよ。
次の大河ドラマで卑弥呼もいいと思うよ。 >>860
太宰府の自体が九州倭国の存在を示しているな。 九州邪馬台国からの東遷で大和ってのが一番スッキリしてて良くない?
ただのおとぎ話が実はリアルでした、ってすげえロマンない? >>856
大宰府が邪馬台国かもしれないし違うとしても
邪馬台国関連資料が見つかるかもしれない >>865
東遷伝承は素直に考えれば畿内政権による九州征服正当化のためのプロパガンダかな
ろくに論拠となる資料は出ないからね スサノオの下界への追放、大国主の国譲り、神武東征・・・この辺を素直に受け止められないからな。 恒例の+邪馬台国スレだけど最近は畿内説に元気が無いな
三角縁神獣鏡を未だに重要根拠として魏鏡と言い張るのはどうかと思うわ
そうせざるを得ないほど畿内説に材料がなくなっているみたいだな 曹操の墓から出てきた鏡と酷似したものが大分の古墳で見つかったとか >>870
日田の鉄の鏡ね、鉄鏡は銅鏡に比べると出土が少ないんで注目されている。 >>831
奈良盆地で突然文明が発生したのではなく、そもそも縄文時代が始まる前から日本全国に文明はあったんだよ。
畿内は瀬戸内海や東海、北陸との交易の痕跡が色濃く出ているし、纒向遺跡にしても邪馬台国論争のフィルターを外してみると
3世紀当時に300haもの規模を持つ日本最大規模の交易都市だった事は間違いない。
奈良盆地に公益拠点ができたのは、日本海航路の阿曇と瀬戸内・太平洋航路の隼人、縄文先進国の関東・東海
それぞれが行き来しやすい中間地点だったからだろう。 >>870
あと、順番が逆、日田出土とされる鉄の鏡に似た鉄鏡が、曹操の墓とされる墓からも出てきた。 魏の使者が来た場所がどこかと言ったらそりゃ九州だろうな。
ただその頃の日本には畿内に支配的な政権があって九州もその影響下にあった可能性が高い。
畿内も九州も両方とも大和なら別に矛盾もない。日本開催の国際サミットを沖縄でやってるのと同じ。 纏向は諦めました
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
[調査結果]
纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1% >>875
>ただその頃の日本には畿内に支配的な政権があって九州もその影響下にあった可能性が高い。
3世紀に関西と九州と間に交流の痕跡は殆ど無い
関西から東は世界から孤立していたんだよ。 銅鐸の鋳型は九州でも出土してるに、銅鐸自体の出土が九州では少ないっていうのも謎だよな。
九州では埋納せずに鋳つぶして再利用したのかな? >>875
上の方でも複数レスがあるけど畿内論者は北九州と畿内の交流の痕跡が少ないことを無視してずっとこの支離滅裂な主張を繰り返しているな
余程畿内から中国との交流の痕跡が出ない事が苦しいようだ 九州の銅器の鋳型は石を掘った石型なので残りやすい。
土型、砂型では残れない。
また、九州の銅鐸は中国の原型に近い小型のもの。
大型化して独自の進化を遂げるのは中国地方から近畿のもの。 大宰府もそんなんだけど、前からあった街・施設の上に新しいの作っちゃうと、前の遺跡は残らない場合もあるからね。 九州だろうと畿内だろうと邪馬台国がどちらにあっても別に重要じゃないのにいつまで論争してんだよ
補助金貰おうとすんな 埋納というのがナンセンス
出土場所や状況から大半は外敵から一時的に隠したものだろう
そしてそのままになったという事は最終的に外敵に負けたということ >>879
その嘘のソースはどこ?
ネットで拾ったガセネタ? ヒナモリって遠い地域を治める官職だからまぁ九州はそういう位置づけだったんだろうな
どういう経緯で大和が王権の中心になっていったのか気になる 銅矛銅剣銅鐸とも同じように大型化していき、同じ時期に使われなくなった
まるでどっかで一元管理しているかのように
弥生遺跡からは縄文の遺物も出ていたが、これら青銅器の進展と共に出なくなった
でも青銅器文化が一斉に終わりを告げると縄文に戻ったかのような呪術を主体とする卑弥呼が登場する
何かしらストーリーを考えると楽しいわな 1ヶ所に限定する必要はない
西日本の広い地域がヤマトとして大陸や半島と別地域であるとされた
時期によって中心地は移動する
文字獲得以前の頃に治めるのは太陽神の巫女である女性
最高権威者の呼び名は個人名ではなく役職に相当する
あるヒミコは九州に居ただろうし別の時代のヒミコは別の地域に居ただろう >>885
[纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する
決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、
古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで
東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる
(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を
含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が
大陸との交易は乏しかったと推定される。 そもそも弥生時代に奈良に政権というものが存在した痕跡は無い
[箸墓古墳](纏向)
2018年4月、奈良県立橿原考古学研究所が前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、後円部頂上から
出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、前方部の土器は地元の土であるのに対し、
後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。
このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を
持っており、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される。 名曲JR九州社歌の歌詞を変えなきゃいけなくなると残念なので、九州説で良いですw
https://youtu.be/b3aKJJmSW98 奈良盆地では硯も出土していないので文字文化が存在したことも確認できない
魏志倭人伝によると倭人は文字を使っていた 倭人は文字使ってねえよ
暦すら知らないから農耕リズムで1年と数えてるって書かれてんだろ >>887
一元管理してたんじゃなくて倭国大乱じゃないかなあ
>>888
文字獲得って、大陸に朝貢した1世紀には既にあったんじゃないの? >>895
「皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」
文書で確認していた >>894
魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてありました? >>766
宇佐は豊の国であって、卑弥呼とともに台与も合わせて祀ってるのでは
なかろうか。そうして台与はまた神武天皇の祖母の豊玉姫であり、伊勢
神宮外宮の豊受豊受大御神とも同一のものではないかなと思ったり。
ちなみにアマテラスは応神=仁徳系の神様で、やはり卑弥呼もモデルの
一人だろう。つまり伊勢神宮は卑弥呼と台与を祀っているのではないかと
考えている。 >>897
なんで前の分省略すんの??
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 卑弥呼は神功皇后だろ?魏との修好は我が大和朝では名誉の歴史だw >>885
そもそも纒向遺跡を発掘調査した関川尚功氏が纒向遺跡と邪馬台国との関連を否定しているが?
嘘とまで言うなら畿内の北九州、または中国との交流の物証出したらいいんじゃね >>901
神功皇后は、子供産んでるから卑弥呼と同一視するには色々問題が生じるんだが。 わかりやすいけど、九州説って>>897みたいなやり方でしか成立しないんだよな
元の文章を読めば、「津(港)」で「帯方郡の使い」が確認して女王の元に届けていた、と書いてあるのに
前の部分省略したら、まるで女王側(倭国)が文書で確認したかのような印象になる
里を無理矢理単里にした時と同じだよな >>901
神功皇后(あるいはそれより前の景行天皇とヤマトタケル、その子の
仲哀天皇あたりまで)はほとんど作り話のような気がする。
応神=仁徳が崇神王朝を奪ったという事実があって、それを上手く
記紀編纂時の天武朝までつなげようとしたんじゃないかなと。 >>897
たとえ相手が読めなくても文字にして渡すのが交流ではふつう
渡すから読めてるというのがまず間違い
漢委奴国王だって印に字を書いてる ヤマタイとヤマトが似てるから大和で邪馬台国は奈良なんじゃねえの? >>906
台与の支援も文書だったぞ?
お前本当に魏志倭人伝読んだのか? 弥生時代のすずりは松江でも発掘されている。
すずりがあるからと言って文字を書いていたとは断言できないけどね。
(たとえば絵をかいていた可能性も有る。) >>908
紀元前からスズリを使ってるわけで、金印も貰ってるんだし、むしろ文字を知らなかったと考える方が困難だろ >>904
ホケノ山古墳って纒向遺跡の中にあるのを知らないの? >>912
おまえは1枚絵描いただけで漫画家になるのか? 景行天皇から神功皇后までは福岡が拠点。
応神天皇が生まれてから畿内に帰った。
卑弥呼が神功皇后なら
福岡の話ということ。 だから大宰府の下掘り返そうぜ!
木簡ゴロゴロ出てくるよきっと! 九州からは邪馬台国の遺跡はなにも なんにも出てこないからね 結論の出ないことを長年うだうだ続けて
「学問」と称する詐欺ww >>917
大宰府の遺跡自体が価値の有る遺跡なので、さらにその下を掘るには、より古い遺跡の存在を確信してないと難しいだろね。 文字の出土状況は大雑把にこんな感じ
文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していないでたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。 そうだ、微妙にスレ違いかもしれんが折角詳しい人集まってるんで聞いてみるけど
倭の五王ってなんで北朝じゃなく南朝に遣使したのかな?
そもそもそんな航海技術あったん?
北ルートの遣唐使であんな苦労してたのにw >>881
調べたら春日市から銅鏡鋳型が出てたw
https://tizudesiru.exblog.jp/237928253/
>>886
ヒナモリは伊都国に居た卑弥呼が周辺諸国に置いたんだよ。 >>923
出雲の件を含めろよ
あと縄文時代から存在するペトログラフもな
文字らしきものが発見されてもそれが渡来文字かどうか区別する必要とある 906も書いてるけど、基本的に通訳を介してたのが倭人
通訳は大陸人で倭人が字を使えなかったのがわかる
文字をマネてみたいなことはしてたはずだが日本語にするにはムリな時代
台与に文書渡したってのも文明国では文書にして渡すのが当たり前てだけ
文書渡す(読めるとは言ってない) >>906
息をするように嘘をつく人が一定数常駐してるからな
邪馬台国スレは常連ばかりだからすぐ気づくw 台与はとよ
邪馬台はやまたい
絶対にやまとと読ませないのは何故 >>931
だって九州のヤマトで確定しちゃうから・・ >>919
水城の底辺部の築城年代が3世紀だから太宰府も地下に古い年代の物が埋まってるかもね。 飯も食わずに四六時中印象操作をやってる畿内説の宣伝係がいる
何度もトリップを公開してしまうOKUYAMAというマヌケw >>931
普通に考えると「やまとのくに」でしょう 伊都国→イトコク
都があったなら邪馬都国と書かれたはずだな >>935
学者に九州説なんてほぼ皆無なんだから結果的に九州説否定派が多いのは当たり前だろw >>939
むかーし老害学者だった連中だろ
旧石器時代捏造とかやってたなw
畿内説捏造計画も俺は知ってるぞw >>914
知ってるけど?
ホケノ山古墳が中国または北九州との交流の物証と言いたいの? 水城の最古がいつかは諸説あるが
自分が知っているのは、古水城の5世紀と
7世紀の現?水城。
観世音寺に保管されていたと伝えられる
木樋の木材が5世紀だったかな?
周囲の神籠石山城が推定4世紀らしいので
その頃から水城も含め太宰府防衛陣が作られていたと見られる。 >>906
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
文書と賜遺の物を同時に伝送するから間違いないってことだから
受け取った倭人側が目録と品物を確認して間違いない
つまり倭人側に文字が読める人が居たんだよ。 >>942
水城は3層で最下部が3世紀に造られてる。 中国から渡ってきた人がいたのか、
日本人が行って勉強してきた人がいたのかわからんが
文字が読める人が少数いても不思議じゃないね。
国書書くなら読み書きできる人がいないと無理だろうから。 7世紀の水城しかわからんが、
水城の大きさは1200m×80m
かなり巨大な古墳に匹敵する大きさ。
それだけの巨大な防壁を作れるのに
あまり大きい古墳がない。
九州はあまり古墳の大きさは気にしない
文化だったと行ってよいだろう >>945
使える人は一定数いたんだろうけど、第一回の遣隋使ですら書状持って行かなくて恥かいたからなんとも 魏の時代の畿内は倭国ではなく倭種の国でしょ
100歩譲っても狗奴国の一派ってとこかな
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。 >>922
太宰府の遺構って何のことだ
太宰府政庁のこと?
トレンチすればいいだろ別に レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。