新型コロナウイルスの感染拡大が、欧州で最も深刻化しているイタリア。ミラノ在住ジャーナリストの新津隆夫氏は、「この状況は『突然の災難』ではなく、過去20年以上におよぶ中国の『静かなる侵略』の結果だ」と指摘する――。

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「一帯一路」参加からちょうど1年
今からちょうど1年前の2019年3月、イタリアはG7の中で初めて中国との「一帯一路」構想の覚書を締結した。「一帯一路」構想はまたの名を「(現代の)シルクロード経済圏」構想という。古代のシルクロードが、秦の都・長安からスタートしてローマに至る道であったことからすれば、中国にとってイタリアは、「一帯一路」の体裁を整えるためにも是が非でも欲しかったパートナーだった。

そして今、イタリアは新型コロナウイルス禍によるダメージがヨーロッパで最も突出した国となっている。3月28日現在で感者数9万2472人、死者1万23人を数え、しかも増加のペースが一向に衰えない。

上記の「一帯一路」への参加が、イタリアにおけるコロナ禍のきっかけとなったという分析も見かける。だが、ここ20年以上ミラノで暮らす筆者にとって現在の状況は、中国のイタリアに対する長年の「静的侵食(サイレント・インベージョン)」が、ある一定の成果を収めた結果に見えて仕方がない。

イタリアのアパレル産業を支える中国人労働者
イタリアの主要産業のひとつ、アパレル。その中心はトスカーナ州にあるプラートという町だ。日本のキャリア女性にも人気の高いマックス・マーラやプラダ、フェンディなど、多くのブランドの工場がある。

この町に隣接するサン・ドンニーノの皮革工場で働く中国人たちが、プラートに移り始めたのは1990年ごろのこと。次第にニットを中心に中国人が経営する工場が増え始め、中国人のコミュニティーが成長。ついにはプラートの繊維工場はほとんどが中国人経営となった。

当時、イタリアの法律に違反して24時間態勢で工場を稼働することが常態化するなか、ある工場が夜中にストーブの火の不始末から火事を起こし、何十人という中国人が焼け死んだ。このニュースを機に“メイド・イン・イタリー・バイ・チャイニーズ”が注目されることとなる

1990年代の末ごろ、ミラノのパオロサルピ地区において、卸売業者のトラックの違法駐車問題が起こった。パオロサルピは日本の神戸や横浜ほどの規模ではないものの、ミラノのチャイナタウンと呼ばれ、中国人経営の衣料や食材の店舗が軒を連ねている。その後も中国系の不法移民問題や、ギャンブル、売春、合成麻薬の売買、さらには発砲事件なども多発するようになり、中国系住民と地元住民との確執は激化した。

業を煮やしたミラノ市は、中国人会の代表者と幾度も折衝を重ね、卸売業者をミラノの北西20キロの、アルファ・ロメオの工場跡地があるアレーゼに移転させると発表。だがこの交渉は結局決裂し、次にミラノ南端のアッビアーテグロッソに、当初計画よりもさらに広大な土地が提案されたが、これも合意には至らなかったようだ。結果としてミラノの中心部にとどまれているという意味では、中国人側の完全勝利である。

2000年代に入ってから中国系移民が急増
80年代に入るまでは、ミラノにおいては中国人はまだまだ珍しい存在だった。記録によれば、1975年にはイタリア全土でも中国人は402人しかいなかった。それが80年代には福建省から、90年代には中国北部からの移民が徐々に増え始めた。

2000年代になって鉱山の閉鎖が相次いだことをきっかけに、中国から大量の失業者がイタリアに流入。2005年には約11万人だった中国人は、10年には約19万人、15年には26万5000人にまで達した。イタリアにおける移民の数としては、近隣のルーマニア、モロッコ、アルバニア、そしてウクライナ(いずれも国家破綻した国ばかりだ)に次ぐ数である。

とはいえ、その頃までのイタリア人と中国人の関係は、上記のパオロサルピを除けば友好的なものだった。中国本土からの観光客も増え、17年には年間150万人の中国人がイタリアを訪れた。一人当たり1200〜1600ユーロ(約15万円〜20万円)を落としてくれる中国本土からの観光客は、それまでの上客であった日本人に代わるものとなり、レストランのメニューやフロア案内など中国語表記が目立つようになる。年間5000万人が訪れる観光立国であるイタリアを支えているのは、もはや中国人なのだ。

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2020/03/30 9:00
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