0001樽悶 ★
2020/04/21(火) 00:13:19.56ID:QLuVs+cq9https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/9/e9858_1583_4e0f9971f3870fdf88455142b0cc9f4a.jpg
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「道南十二館」の名称は、享徳3年(1454)に津軽十三湊(青森県五所川原市)の安藤政季が南部氏に追われ武田信広らとともに道南に渡り、配下の武将を12の館に配置したことに由来するといわれる。
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発掘を担当された学芸員の森靖裕さんからは、同館は箱館(函館)近郊の志苔で和人とアイヌとの間に起きた対立をきっかけとする長禄元年(1457)のコシャマインの蜂起直後の1460年頃に築かれ、下国安藤盛季の一族が入ったと解説された。なお、この戦いで12館のうち、茂別・花沢以外の10館は落城したという。
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もうひとつ重要だと感じたのは、中国銭をはじめとする質量とも豊富な出土銭である(郷土資料館では117枚が整理されている)。12館の館主は、奥羽各地から渡海したと思われるが、武田信広のように由緒を若狭守護武田氏に求める者がいる。
元来、道南から十三湊さらには加賀から若狭にかけての広域流通ネットワークがあり、海の商人的領主の一部が道南地域に根を下ろし、先住の和人集団を従えて館主となったとみるべきであろう。なお、出土品のなかには越前焼が含まれている。
『新羅之記録』には、中世の最盛期には若狭から箱館に年3回商船が来航したと書かれている。中国や本州からもたらされる商品は、和人が消費するだけではなく、アイヌとの交易に必要不可欠な物品でもあった。アイヌからは、昆布・郝・鰯・鰊やアシカ・アザラシ・トドなどの皮革がもたらされた。
アイヌ交易がもたらす富は、莫大なものだったといわれる。たとえば、奥州藤原氏の繁栄は、蝦夷地も含む北方との交易にあったとする指摘がある。あるいは、源頼朝がわざわざ奥州に出兵した理由に、北方との交易権の奪取にあったとする説がある。執権北条氏は、「関東御免津軽船」といわれる大船で日本海交易に乗り出している。これらから考えられることは、貨幣経済が早期に浸透していたことである。
●松前に遺された巨大城郭「大館」
資料館を後にした私たちは、森さんのご案内で茂別館跡(国指定史跡)に向かった。この館は、嘉吉3年(1443)に十三湊の城主安藤盛季が渡海して普請したものという。大手前の道筋にクルマを止めて、海が近いことから交易を前提とした立地であること、縄張は「大館」と「小館」からなることの説明があり、そのうえで矢不来天満宮の鎮座する「大館」跡に向かった。
ここは、大型土塁に囲まれており、広大な曲輪が切岸によって独立していることが確認できた。このような遺構からは、筆者がかつて訪れた奥羽の諸城郭が思い起こされた。たとえば、天正19年(1581)の九戸一揆の際の有力拠点となった姉帯城をはじめとする南部氏配下の城郭である。やはり、道南の館は奥羽の南部氏や安藤氏の城郭の影響を受けているに違いないと確信した。
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大館跡からは、松前町教育委員会の学芸員・佐藤雄生さんにご案内いただいた。永正10年(1513)に、アイヌ人の攻撃をうけて大館は陥落した。翌年には、蠣崎(松前)光広が入って徳山館と名を改めて、蝦夷地の支配拠点とする。慶長11年(1606)に福山館(後の松前城)を築いて移転したため、廃されたといわれる。ただし遺物の残存状況からは、松前氏の隠居城として維持されていたと佐藤さんは指摘される。
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最初に向かった「小館」は、先端まで歩いたが、至近に海が見えた。やはり、ここも交易を意識した拠点だったのだ。一同、引き返して「大館」に向かう。広大な遺構である。佐藤さんは、元はアイヌの城郭「チャシ」があったのではないかとおっしゃる。
「大館」内は広大であり、谷あり畑ありである。ここに多くの居館が普請されており、先端には柵が結ばれ大規模な堀切があった。そこを越えると墓地になっている。巨大な城域には、松前氏が居住したと思われるが、踏査した印象では、家臣団屋敷も十分に営める規模である。
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茂別館といい大館といい、土塁や堀切を伴う大規模で大味な縄張だった。海運を意識した立地であり、内部には館主を中心とする家臣団と商人らの和人、そしてアイヌが混住したようである。館とは、交易都市といってもよいのではないかとの印象をもった。(文/藤田達生)
2020年4月17日 21時0分
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