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そのあといわゆる「バターン死の行進」になる。
半島の南端にあるマリベレスから後方のサンフェルナンドまでの112キロを
米比軍の捕虜に歩かせたら、2千人以上の死者が出たという出来事である。

しかし考えてみるに、前年12月のマニラ陥落から4月11日の降伏までの間に、長い期間がある。
この間、米比軍は食糧不足にあえいでいたのだから、わずか100キロ余り行進させられただけで倒れてしまったのは
基本的にはコレヒドールの要塞に立てこもるという「オレンジ計画」にのっとった作戦の失敗、というべきではないだろうか。
アメリカ軍が食糧不足で体力を失っていたのだから。
《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封2」》

●第14軍参謀長・和知鷹二中将は戦後次のように述懐している。
《水筒一つの捕虜に比べ、護送役の日本兵は背嚢を背負い銃をかついで一緒に歩いた。
できればトラックで輸送すべきであったろう。
しかし次期作戦のコレヒドール島後略準備にもトラックは事欠く実情だったのである。
決して彼らを虐待したのではない。
もしこれを死の行進とするならば、同じく死の行進をした護送役の日本兵にその苦労の思い出話を聞くがいい》 
(産経新聞 平成9年4月6日付)