【古代】日本の城のルーツ、朝鮮式山城 殺人やリンチ、弥生時代の集落で起きていたこと [樽悶★]
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大塚遺跡(撮影/西股 総生、以下同)
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200505-00060363-jbpressz-000-1-view.jpg
■ 城の原型は弥生時代の環濠集落
今回から数回に分けて、日本の城の歴史についてお話ししましょう。
日本における城の原型は、弥生時代に生まれた環濠集落です。環濠集落とは、文字どおり、まわりに濠(=堀)をめぐらせたムラです。弥生時代には、稲作農耕が広まるとともに、金属製の剣や鉾(ほこ)、大型の鏃(やじり)といった武器が使われるようになりました。こうした中で営まれるようになったのが、環濠集落です。これは、戦争の時代が始まったことを意味します。
ではなぜ、弥生時代に戦争が始まったのかというと、理由ははっきりわかっていません。人類史的に見るなら、人と人とのケンカや殺人事件などは、武器や環濠が出現する以前からありました。でも、殺人やリンチは暴力ではありますが、戦争とは違います。
戦争とは、人を殺傷する専用の道具=武器を使って、組織的に行使される暴力です。ここでは、われわれの祖先は弥生時代になってから、戦争という行動パターンを選ぶようになった、とだけ言っておきましょう。
弥生時代にはムラどうしが戦いながら、次第に大きなまとまり=クニができてゆきました。やがて、古墳時代に入り4世紀頃になると、そうしたクニの中から大和政権が生まれて、全国に勢力を広げてゆくようになります。古代国家の誕生です。
■ 唐や新羅に対抗するために築かれた山城
ここで、頭に入れておいていただきたいことがあります。日本における国家形成は、日本列島という閉じた空間の中だけで起きたわけではない、ということです。弥生時代からのちの国家形成は、朝鮮半島の情勢と密接にかかわって起きた動きでした。
当時の朝鮮半島は、百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)などの国に分かれて争っており、日本はしばしば援軍を送っていました。ところが、7世紀になると大陸では唐の勢力が強大になります。
半島では、唐と結んだ新羅が優勢になって百済が滅ぼされ、日本は多くの亡命者を受け入れます。そして、663年には百済の亡命政府を助けて半島に大軍を送り込むのですが、白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗してしまいます。
こうなると日本は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えなくてはなりません。そこで、亡命百済人たちの技術力を借りて、九州から瀬戸内一帯に、朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)と呼ばれる防衛施設が築かれました。大和政権の九州総支局である大宰府(だざいふ)を防衛するために、水城(みずき)という巨大な堀と土塁も築かれました。
そして、白村江の敗戦や朝鮮式山城の建設と並行するように、大和政権の内部にも大きな動きが生じます。壬申の乱が起き、大宝律令の制定が進んで、律令(りつりょう)国家と呼ばれる体制が成立するのです。それまでの大和政権は、昔ながらの豪族連合のような体制でした。しかし律令国家は、唐の制度を手本とした中央集権的な支配体制です。
つまり、唐や新羅に対抗するために、日本もグローバルスタンダードな体制へと移らざるをえなかったのです。朝鮮式山城の建設には、唐や新羅から来る使節に、日本の軍事力もグローバルスタンダードになったなんだよ、とアピールする狙いもあったのかもしれません。(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
5/5(火) 8:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200505-00060363-jbpressz-life 日本の天守閣とかは西洋の城の絵を見た信長が似たようなの作らせたのかもしれないね 今の朝鮮半島の連中って、日本が統治する前は漢字使ってたろ? >>91
そうやって吉野ヶ里の観光向けのでっち上げを持ち出すパヨチンw
アイヌ村にもトーテムを捏造して既成事実化しているわけだw >>99
>>1は古代の話。
それらの城はそこからずっと後の話。 >>99
逆逆
朝鮮征伐のときに蔚山倭城の城造りを学んだ加藤清正が作った勾配が、
熊本城
ウィキペディアでもなんでもいいからぐぐれよ
>>79
何言ってんのかさっぱわかんないんで、
数詞について教えて
一、一つ、ひい
どれが日本語?
そして
ニ、二つ、ふう
どれが日本語?
あと百済語では1をなんという? もちろん地上最強の戦闘民族である偉大なる大韓人が
この東夷倭国に上陸してしまったんだから、それはもうミナギってしまい
1万年間平和に暮らしていた「日本人」こと縄文人はひとたまりもないよねw
そして主敵は縄文人ではなく、同じく偉大なる大韓よりやってきて
縄文人をホロンぼし、或いは隷属させて米を作らせていた武装渡来人集団、
ここと戦うための武装集落こそが環濠集落なわけだ。
戦争の本質は別にコメのような貯蔵穀物の伝来に非ず
貯蔵品なら縄文時代にもあったんだよ。ドングリでも毛皮でも宝石でも。
戦争の本質はまさに戦う意思、ここにあるんだよ。
そして偉大なる大韓民族はこの東夷の蛮地で群雄割拠し
闘争の末に闘争し、そしてやがてひとつの国家の誕生を見た。
それが邪馬台国であり大和朝廷であり、その服属民たるおまいらだwww
すなわち、チミらこそが偉大なる大韓民族の末裔でありw
ならばこそ、兄弟国である韓日両国はいまひとたび、合邦するべきなんだよwww ID:aeGxeSzg0 は典型的パヨク史観の捏造バカ >>45
うん
「はくすきのえ」だと子供が漢字の読み方間違えて覚えるんで、
はくそんこう に変えた
新羅も現地語だとシルラだけど、大和言葉はしらぎ。
学校ではシンラと呼ぶ場合もある
文句あるなら八紘一宇←これよんでみ エベンキが朝鮮のルーツだとしていつ今の朝鮮人がどこから来て、エベンキはどこに消えたんだ?
これの説明が出来ない限りエベンキネタはフェイクニュース >>2
そんな昔から韓国なんて国があったのか?
凄いな 弥生時代になると金属製の剣や鉾、大型の鏃などの武器が使用され戦争が始まり、環濠集落が形成された
人類史的には武器や環濠集落の出現前にも殺人やリンチはあったが戦争とは違う
という趣旨なのに何でそういうスレタイになる? 弥生時代になると金属製の剣や鉾、大型の鏃などの武器が使用され戦争が始まり、環濠集落が形成された
人類史的には武器や環濠集落の出現前にも殺人やリンチはあったが戦争とは違う
という趣旨なのに何でそういうスレタイになる?w >>50
チンパンジーも戦争するそうだ
しかもオスは皆殺し
だから群れるそうだ
ソースはジャレドダイアモンド どう転がっても韓半島の文化的影響下にあるクソジャップ。
真実が一つ明らかになるたびにネトウヨが発狂してしまうのには草しかない かもしれません
ふざけたこといってんじゃねーよタコ
それでも学者か >>111
八紘一宇は「はっこういちう」以外の読み方があるの?
ところで、任那は「にまな」で読み方は変わってないよね。 >>118
ほら、宇宙を誕生させたのも韓国とか言ってる可愛そうな子だから…ウンコだけ与えて触れないでおいて 城と言っても天守閣とか櫓とか大手門とか想像したらダメだぞ。
朝鮮式山城から発展した日本の初期の山城は、山の尾根を利用した
土塁とか堀とかめぐらしただけの(石垣さえ少ない)ただの曲輪。
姫路城とかは(中国の楼閣等に影響を受けた)日本独自の美の結晶。 日本ビジネスプレス
↑
朝鮮系 外資系が「日本〇〇〇」と名乗る >>45
40代だが、はくそんこうと読んでたぞ
別にどっちでも間違いじゃないdなが 事実かどうかは知らんけど、半島がらみだと証拠ゼロで平気で起源ぶっこんでくるからなあ… 日本の城の代表とされる天守閣式の台形型城は日本オリジナルのものだろう
あの美しさは他国では絶賛されてるから >>45
中学で一通り日本史をやって高校に入ってまた同じ勉強を繰り返すのか、に対して
同じものの読み方を変えてショボい格上感を演出してるのかなあ、とか
「ジンギスカン」と呼ぶやつは中卒、チンギスハーンと呼ぶやつは高卒、みたいな色分けの符号を仕込んでるのかなぁとか 、あれこれ考えてた事はある。 >>89
山中城とかいいですよね
東海道の上に居座って殺ったる感凄が凄い
備中高松城行ったついでに朝鮮式山城で有名な鬼の城に寄ったんですが、対比が面白かったですね
同じ発想の防御施設がある一方、戦闘施設としての洗練度とか
鬼の城が規模が大きい割に縄張りが単純でどんな想定してたんだろうとか >>129
城マニアはむしろそういう山城の方が好き なにが朝鮮式やねん
まだ四大文明の一つ中国式というならわかる 朝鮮式山城自体そんなもん無いよ
加藤清正が日本の城郭と建築、土木法を
持ち込んで築き上げた
それ以前に朝鮮韓国にマトモな城なんか存在してないし 弥生時代は戦争の時代、縄文時代は平和の時代
縄文時代は凝った装身具があるのに、弥生時代は簡素な衣服になってしまったのは
装身具を作ったり着飾ったりする余裕がなかったからという ってかそもそもその日本の城の原型もねえのに
しかも日本に沢山ある前方後円墳もチョン国にちょっとあるらしいな
文化は逆だろ日本からチョン ・日本で編纂された『新撰姓氏録』には神武天皇の兄は、新羅王の祖であると書かれている。
・西暦57年、『新羅本記』によると倭人の脱解尼師今が新羅王の祖になった。
・西暦57年、倭奴国王が金印を授かった。
※西暦57年、神武が初代天皇になり、神武の兄が新羅王の祖になったと考えられる。
『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
昔氏の始祖が、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。 *294年夏・・・倭人が長峯城を攻める。
*300年春正月・・・倭国へ使者を派遣する。
*312年春3月・・・倭国王から使者がきて、息子がいい年だから嫁を出せと言ってきたので急里(きゅうり)の
娘を倭国に送った。
*344年・・・倭国の使者がやってきてまた婚姻を申し込んできたが勇気を振り絞って断った。
*346年・・・婚姻拒否に怒ったのか倭人が風島に進軍。金城を包囲して攻撃。
*393年・・・倭人が金城を5日間包囲。
*402年・・・3月に倭国と友好を結び、17代新羅王 奈コツ王の子、末斯欣(みつしき)を人質に出す。 *232年夏4月・・・倭人が金城(新羅の都)を包囲する。
*233年5月・・・倭人が東辺境を攻めた。
*249年夏4月・・・倭人が干老(新羅の一等官)を殺害。
*287年夏4月・・・倭人が一礼部(場所不明)を襲う。
*289年夏5月・・・倭人が攻めてくるというので戦船と鎧を修理した。
*292年夏6月・・・倭人が沙道城を攻め滅ぼす。
*294年春・・・新羅王いわく「倭人がしばしば攻めてくるので百姓が安して暮らせない。百済と共に
海を渡って倭国を攻めようと思うが?」
家臣の弘権いわく「私たちは海戦に慣れていません。遠征は危険です。まして百済な偽りが多く、私たちを
呑み込もうと野心があるので難しいです。」王は納得した。 >>142
ウリナラファンタジーw
ネット愛国者って日本も朝鮮も言動が完全に一致 ・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族である。
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、また王家の一つ昔氏が倭人系統であること、さらに始祖の朴赫居世も倭人。
・百済、新羅が大和王権に対して従属的立場を採り続けた(王族、王子を人質として献上)。
・大和王権による伽耶地域の支配(半島南部に多数の前方後円墳が存在)。
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での始源性の不在。半島にあるものはすべてシナにもある)。
・常にどこかしらの国の属国として歩んできた歴史。
・姓が漢族のもの。
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であった(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)。
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であった(琉球の江戸上りと同じ)。 >>143
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/633/633PDF/uchino.pdf
縄文時代の人骨を調べてみたらけっこうな数石斧で殴られたり弓矢で射られたりして死んだり大怪我を負った痕跡のあるものが見つかってる
後頭部など背後から襲われたと見られる傷が多いことから事故ではなく意図的に殺傷を狙ったものと判断でき、縄文時代は決して平和ではなく暴力も存在していたことがわかってきている 🌟新羅本紀🌟
弥生後期 〜 古墳時代
高句麗が調子乗り出すまで 百済を瀕死にまで虐め抜いた残虐新羅が
当時の日本国にボッコボコにされている様子、朝鮮半島側の記録
戦後長い間、 韓国忖度が続いてだれもが議論しなかっただけで
当時の百済人に呪われるほど憎まれた新羅が倭国人からボッコボコ状態
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」 脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年
春 王が臣下に向かって
『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見
はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が
「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
これに対して、舒弗邯、弘権が、
▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。
冒険的な遠征をすれば、 不測の危険があることを
恐れます」
※当時から海に不慣れな新羅人が明確。
この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。 三国史・・・・・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」
宋書倭国伝・・・・・・・・・朝鮮半島は倭が支配している
広開土王碑・・・・・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。
日本書紀・・・・・・・・・「391年 神宮皇后が百済新羅を日本領土とした。」
宋書・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。
随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。
朝鮮半島に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。 魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期〜後期(5〜6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。 コリアン(朝鮮民族、韓国人・北朝鮮人)が認めたがらない歴史的事実一覧
・稲作が九州から朝鮮半島に伝わったこと
・唐辛子が日本から朝鮮に伝わったこと(足袋(たび)に入れて足を温めるものとして朝鮮半島に持ち込まれたのが唐辛子)
・半島南部の先住民が日本人(倭人)であったこと
・新羅の建国時の宰相が日本人(倭人)であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても日本人説(倭人説)があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による任那(伽耶)地域の支配があったこと(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・朝鮮半島における文化的独自性が欠落していること(あらゆる分野での古典の不在)
・属国として歩んできた歴史であること(漢民族・モンゴル民族・満洲民族のどの民族からも朝鮮民族は格下扱いされてきた)
・中国の属国になってから、みずから改名して、中国語の姓名であること
・秀吉の朝鮮出兵が日本と明の戦争であったこと(李氏朝鮮の軍は明の軍の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われた)
・李氏朝鮮王が、中国の地方長官の地位でしかなかったこと >>1
日本の場合は通常の海住みの縄文海人や弥生倭人の潜水倭人
が住人だがときどき異界民族が混じり込んだ
海住みできない半島の山賊が渡海してきてすでに山棲みしていて
第7代孝霊天皇の時には鬼となって強奪活動をやっていた
渡海してきた海民でない半島山賊の百済人の👹の温羅のように
日本の山間部に朝鮮山賊の鬼がいた場合も多い >>106
熊本城より以前の日本の城も扇の勾配なんだが・・ 今いる奴等とその時居た半島の方々は全く違うのを奴等はいつ理解すんだ?まさか知らないのか? 記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
今回、研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)(注1)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、
アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_241101.html
現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html >>137
もっとモンゴル好きな人は大ハーンとか呼んでたなw >>156
歴史上知られる百襲媛と五十狭芹彦(後の吉備津彦)が
姉弟で第七代孝霊天皇の子
第21代雄略天皇の吉備征伐がが5世紀中頃で鬼征伐もやってる
弥生時代終期の五十狭芹彦が成敗した百済鬼の温羅は、鬼ノ城を
拠点に悪事を重ねていた半島かtら漂着した余所者 >>106
朝鮮征伐なんて戦国の末期
それ以前から数千と作られていた 朝鮮民族は他人の功績を盗もうとするから何の発明も無い >>159
バカで有名な在日クラスタ糞チョン ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ !!! キタ━━ヽ(゚ω゚)ノ━━!! 弥生時代とかゴミしかいないし、
サバイバルナイフ一本あったら身長167センチの俺1人でリアル無双できそうだな コロナコロナでどーでもいー
全くキョーミねー
目障り >>162
その元祖が亡命百済人の造った大野城なわけで >>156
北陸や東北の住民が言葉の通じない大陸や半島系の
異族の鬼が流れ着いてそのまま棲んでいて恐ろしいと
いう民話や中央の記録は残ってたはず
蝦夷や北陸民は大和と離れていてもは言葉は通じた
ツングース・エヴェンキ系の粛慎がいたな
佐渡島の縄文・弥生系先住民が相当迷惑がってたな >>168
日本書紀にそう書いてあるんだから、否定しようがない 💎最新: 現代日本人 (≠韓国人) のまとめ
〔日本人のDNAは朝鮮人 や 中国の東北部人とは異なっており琉球人やアイヌ人のDNAと共通点が多い〕
Y染色体の80種類ほどの遺伝子のうち
日本人は 「D2 (D1b)」 を持っているが
Y染色体の中でも 非常に古くからある系統。
日本人のD系統は、ほぼ100%が 「D2 (D1b)」系統。
同じD系統であってもチベットや東南アジア が
D1とD3系統。
もちろん同じD系統だから近縁であることは
間違いないがD2 (D1b)系統は世界の中で
日本人にしか存在しない固有の系統。
さらに大きな意味な持つのが、 日本の隣の
【韓国にはY染色体D系統が存在しないこと】。
この系統を持っているのは世界的にも珍しく
【圧倒的に日本人に多く存在し韓国人には先ず
見られない】。
核DNAというのパターンを網羅的に解析した
結果、【日本人は韓国人と大きく異なる】ことが
判明した。その【「D2 (D1b)」をいちばん多量に
持っているのがアイヌ人と沖縄人である】。
[現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると証明してしまったのである。]
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団(ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人) 現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると、
証明してしまったのである。
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」 ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団 (ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人)
であり、4つの集団は各々DNA上離れて存在する。
【ソウル(韓国人)は中国集団に分類され】、DNA上、
華北人と韓国人とはそれほどの違いはなく、
【韓国人は日本人よりも中国東北部の人間に近い】。
またこのD系統は、アジア人種のみならず地中海
沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、
島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと
考えられる。
D2 (D1b)系統は
【アイヌ人88%】、
【沖縄人56%】、【本土日本42〜56%】
チベット33%で、【韓国ほぼ0〜3%】
である。
アイヌには南方系O系統は殆んど無い完全なD系統
であり、 本土日本人と沖縄人には 南方系のOが混ざり、
つまり事実上 アイヌと本土日本人は大差がなく、
アイヌに南方系を足したのが 本土日本人となる。
つまり【 日本国は民族として非常に安定したまとまり
を持った国家 】 である。 >>176
まあそれは重大な事だとはおもうよ
日本人の特殊性やね だいたい、ウンコ半島で封建制は成立しなかったからね
王城があるだけ >>173
秋八月、遣達率答�t初、築城於長門国。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫国築大野及椽二城。 【韓国】8000年前の人類ゲノム解読、 「韓国人のルーツ」発見!
約8000年前の新石器時代に生きていた韓国人の祖先のゲノム(ある生物種を
規定する遺伝情報全体)が初めて解読された。
パク・チョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長(生命科学部教授)
が率いる国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江(中国名:図們江)の
北にあるロシア・アムール川流域の『悪魔の門の洞窟(Devil's Gate cave)』で
発見された7700年前の人類のゲノムを解読した」と明らかにした。
「悪魔の門の洞窟人」の遺伝子は、現地に住むウルチ(Ulchi)族と最も似ており、
近くの先住民を除く現代人の中では韓国人が最も近いことが分かった。この研究
結果は国際学術誌「Science Advances」に掲載された。
韓国・ロシア・イギリス・アイルランド・ドイツの科学者たちが参加した国際研究
チームは、悪魔の門の洞窟で発見された20代と40代の女性の頭蓋(ずがい)骨
=写真=からデオキシリボ核酸(DNA)を抽出して解読した。
ゲノム研究所のチョン・ソンウォン研究員は「細胞核DNAだけでなく、母系にのみ
遺伝する細胞核以外のミトコンドリアDNAも主に韓国人が持っているものと同じ
だった。
遺伝子で見ると、悪魔の門の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と
説明した。 朝鮮式山城を取り入れる前に日本を主体とする勢力が朝鮮半島に橋頭堡を築いていたのはどうして? 城の作り方だけでなく、製鉄技術も亡命した百済人から伝わった
それまでは、弥生時代から古代にかけての数百年もの間、鉄を得るために大量の米や傭兵を半島に送っていた >>182
それまで日本には山城がなかったと言うことはそこに日本の主力はいなかったのではないかとも思える
今で言う台湾みたいなことが起こったのではないかと >>114
コリアンたち自身がエヴェンキもコリアントライヴスのうちの一氏族としてるのだが…?
もしかしてベンキという言葉に反応してる?韓国語ではビョンギだよ
もうちょっと勉強しろ 任那なんか百済奴隷に割譲したよ
その頃には鉄器は国産化できてるから あれ?近代は日本帝国が侵略が!なのに古代の大和の勢力については否定。
>>1のロジックだと日本に争いは持ち込んだのは半島人ってことになるぞ
まあ実際は紀元前から倭国が半島に攻め入ってたことがあちらの史記に書かれてるけどね 百済は日本にとっては厄介な弱小国で
王族は闘うこともせずに日本に逃げ込んで
大量の百済遺民の難民とともに日本に帰化
した。
いちおう天智天皇はゆるく対応したが日本にとっては
古代も現代も変わらず厄介な印象しかない
それでも楽浪郡辺りで虎の威借りて暴れてたモンゴルの手下の
高句麗や新羅ほど狂暴さだけはマシだったというだけ
新羅は唐に頼んで百済を攻め滅ぼしたが、現在まで続く完全に
相互の憎悪関係
新羅を滅ぼした高句麗はモンゴルとか中国東北部特有の狂暴性だけは
あの時代には強みだったろう
だから日本と朝鮮人は古来から全くの別物ってことだよ >>185
その内容の記事過去に遡って見たけど
出た当初からあらゆる書き込みに全否定されてるぞ
いったいなんだって朝鮮人がシベリアのエベンキ人だなんて言い出したんだ?
ソウルの教授がそういう説を唱えたとあったけど
モンゴル起源とか白人起源とか
そんなのいくらでも言ってるだろ 歴史好きにしてみりゃこういう事実誤認した記事ほど退屈なものはない。
事実を間違っていたらそこから話が膨らまないんだよ。
誰に向かって書いた記事なんだろうな?
こんなので金もらえる商売やってる連中に10万円とか配る必要ないだろ。 ★ 瞬殺される在日韓国人のデタラメ無茶苦茶解説w ★
600 名無しさん@1周年2019/05/01(水) 00:42:51.62ID:tE8rei4P0
下野守 栃木県
秦大魚(746年〈天平18年〉9月) 従五位下 〔続日本紀〕
百済王俊哲(再任:791年〈延暦10年〉9月22日〜795年〈延暦14年〉8月7日卒去) 正五位上、後に従四位上、陸奥鎮守将軍〔続日本紀〕
百済王教俊(809年〈大同4年〉1月16日) 従五位下 〔日本後紀〕
甲斐国 山梨県
田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)渡来系
馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』)朝鮮系
山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日)朝鮮系
坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日)朝鮮系
5世紀はヤマト王権による中央集権化に伴い東国の軍事的征服が行われている時期で、この頃には朝鮮半島から乗馬風習が伝来している。 ★ 在日韓国人の無茶苦茶を瞬殺する日本人の解説 ★
609名無しさん@1周年2019/05/01(水) 05:47:44.39ID:6XSsaE4p0
>>1
桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫 についてだけど、
皇統が125代続く中で、百済系がたったの1人で高野新笠が
武寧王から200年後の人物で、限りなく血は薄いよ
>>600
この出鱈目ぶりは日本人じゃない気がする
やっぱり在日コリアンなのかな
まず、高校生でも知っている坂上氏は後漢霊帝の末裔で
坂上氏自体が朝鮮族ではないよ
坂上大忌苅田麻呂も、後漢霊帝の孫の阿智王にもかかわらず
姓が低いと不満を申して宿禰をもらったことで有名
この>>600は日本史の知識ゼロなのが丸わかりなんだけど
なにかの文字起こしして嘘を付け足している感じかな
在日の人ってみんなこんな感じの捏造するのんだったら
怖いね
日本の渡来系氏族の中では後漢霊帝の後裔たちが優秀で
活躍してる
それを在日の人がすべて朝鮮系と勝手にしてるだけかもしれない
だから注意だね
みんな徴用工になっちゃう感じだよね
田辺史広足は「姓氏録」では崇神帝の後裔、だけど「諸蕃雑記」で
百済系とされてて、その背景は天皇がその出自を憐れんで豊城入彦の
後裔に入れたのね
ただし当時の朝鮮系の諸蕃の蕃族は出自を偽ることが多かったけど、
この一族は東大寺建立にあたり一千貫を寄付しているまともな一族
百済王俊哲は、蝦夷との北上川の大会戦で、夏草が茂って戦えない、
馬の餌がないと臆して戦わずで、桓武天皇の逆鱗に触れたバカ者
強い蝦夷の伊治 呰麻呂と戦うのが嫌で、周辺の神社の格上をして神仏
の力だけで勝とうとしたバカ者
この生母が高野新笠なんだけど、百済渡来は歌と舞の才能がある者が
少々のみ
もちろん、舒明帝の時に義慈王は豊璋を日本の人質として義慈王は
唐に拉致され、豊璋は帰国し663年に唐新羅と戦って敗走し、そして
百済滅亡させた
最初から日本に依存してばかりで、最後には日本を泥沼に引きずり
込んだから、もう最低の民族
本当に百済は、日本の疫病神の働きでよく貢献してくれていたよ
山口忌沙弥麻呂も、また>>600の大嘘
事実は坂上氏と同じ後漢霊帝の後裔で 中国系の漢人系で遠い親戚
ただ、本拠は奈良と大阪の県境の大和川の荷物積み替え地の付近
だから、山口氏の2つしかない2系統目で、大和の大豪族の武内宿禰
の末裔かもしれない
いずれにしても山口忌沙弥麻呂が朝鮮系というのは大嘘です 分業した方が生産効率上がるからだろ。でも人多くないとできない。だから戦争して人集めた
分業のメリット>戦争のコスト に気付いたから >>142
福岡空港を内陸の方に離陸すると、直ぐに大野城が眼下に見えてくる
それを過ぎてすぐ右側に基山と言う山が見えてくる
それが古代朝鮮の山城跡
白村江で負けた後に大宰府を守るために急いで作ったんじゃないかな
飛行機の中から見るとわかるけどでかいよ
一部はJRや高速や国道が貫いてるから見ればわかる
博多は昔から防衛も貿易も最前線だからいろんなものがある 白村江の敗戦まで大規模な城砦の必要性はなかっただろう
後に唐が攻めてこないことがわかったんで、朝鮮式山城も一気に廃れた
武士の城は、居館から発達したもので関連性はない >>1
日本では多数出てくる丸木舟すら朝鮮半島では一艘も出土無し
丸木舟は日本人の祖先の縄文海人と親戚の弥生海人
準構造船はどっちも乗ってたよ
朝鮮人は扶余女真系と蒙満系でまったく海のことを知らない
海事全般に弱い民族だと歴史資料は記録しているね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています