【起源】「神社」の社殿は日本古来のものなのか? ★4 [樽悶★]
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全国各地に点在する神社。初詣や七五三、合格祈願など、訪れる機会は多く、我々日本人にとって非常に馴染みのあるものといえよう。
ところで、普段あまり意識したことはないかもしれないが、そもそも神社の社殿は日本古来のものなのだろうか。
「教えて!goo」にも「日本の『神社』は日本古来のものか、日本化されたものなのか、外国のものなのか?」という質問がよせられている。そこで今回も、日本宗教史研究家である渋谷申博さんに、神社の歴史などについて尋ねてみることにした。
■神社の社殿の歴史
まず、神社にある社殿はもともと何だったのか、その起源について話を伺った。
「社殿の起源については、諸説あります。かつての説では、古くは社殿がなく、聖地に神籬(ひもろぎ)のような仮設の依り代を置いて神祭をしたとされていました。しかし最近では、弥生時代の巨大神殿の存在が知られるようになり、社殿の起源をそこに求める説も出ているようです」(渋谷さん)
神社には多くのロマンがありそうだ。
「もっとも、山や滝、巨石を御神体とする神社は、これを社殿に入れるわけにはいかないので、露天祭祀(ろてんさいし:青空の下で神や祖先をまつること)が起源の神社も少なくありません。現在も大神神社(おおみわじんじゃ、奈良県)や金鑚神社(かなさなじんじゃ、埼玉県)などは、本殿を持たない神社として知られています」(渋谷さん)
本殿すら持たない神社が存在するとは……。御神体の形もさまざまあるようで、実に興味深い。
■神社の造り(配置)の意味
次に、本殿や宝物殿、鳥居、狛犬、手水舎(てみずや/ちょうずしゃ)といったものに、どんな意味があるのか聞いた。
「もともと神社においては祭祀が行なわれることが重要で、社殿の有無は二次的なことです。そのため、鳥居や聖地を結界する瑞垣さえあれば、神社としては成立可能といえます。また、社殿配置に決まりはなく、寺院のような四天王寺式伽藍配置(してんのうじしきがらんはいち)・飛鳥寺式伽藍配置といったものはありません。なお本殿は、南向きが多いのですが、北向きなどの場合もあります」(渋谷さん)
社殿がなくても神社が成立するというのは驚きだ。神社の主要な施設について改めて説明してもらった。
「神社の主要な施設としては、以下のようなものが挙げられます」(渋谷さん)
本殿:御神体を奉安する社殿。神社でもっとも重要な建物
拝殿:本殿を礼拝するための社殿
摂社(せっしゃ)・末社:境内にある小さな神社(本殿だけのことが多い)。摂社は本殿の御祭神にゆかりの神を祀る社で、末社より大きいことが多い
神楽殿(舞殿):神楽・芸能などを神に奉納するための社殿
手水舎:手と口を清める(禊の代用)ための施設
社務所:神社の事務などを行なう場所、神札・朱印などの授与所を兼ねることも
狛犬:正確には獅子・狛犬。境内を守る霊獣。稲荷社の狐は神使(しんし)といって神のお使い。天神社・天満宮の牛なども神使
宝物殿:神社の宝物を納める施設。参拝者に公開する博物館のこともある
鳥居:聖域との境界を示す象徴的な門。神社のシンボル。起源などは謎
神門:神社の門。二階建てのものは楼門という。脇間に随神(随身)像を置くものは随神門ともいう。すべての神社にあるわけではない
改めて見てみると、非常にたくさんの施設があることに驚かされる。また、鳥居の起源が不明というのも意外だった。
■「寺」の様式はやはり伝来?神社との違いは?
最後に「寺院」いわゆる「寺」についても聞いてみた。
「寺院は仏教とともに伝わったもので、言うまでもなく外来です。神社が神のための空間(施設)であるのに対し、寺院は修行し悟りを得る人間のための空間になります。寺院建築は柱を礎石の上に立て、丹(に)などの塗料を使い、瓦を屋根に載せるなど、同じ木造建築でも社殿建築とは大きな違いがあるのです。法隆寺が千年以上持ちこたえたのは、寺院建築であったことが理由になります。いっぽう、神社に式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度があるのは、耐久年数が短いことも理由のひとつです。仏教は日本に建築・工芸などの最先端技術を伝えました。神社はこれに対抗するために、あえて古代の建築様式を保ったという説もあります」(渋谷さん)
(続きはソース)
2020年5月14日 12時0分
https://news.livedoor.com/article/detail/18258752/
https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/f/6/f6128_314_d0520d64_0c14901c.jpg
★1:2020/05/14(木) 22:03:58.45
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1589497671/ >>638
日本最古クラスの神社である三輪神社と諏訪大社は御神体が山で拝殿のみで本殿をもたないよね
少しずつ本殿とかが出来て形になっていったんだろうな 伊勢神宮の神殿が出来たのは、法隆寺建立の後です。
つまり、大瓦を使っての大きな建物を建てる事が出来るのに、
瓦を使わずに、太古の時代を思わせるような神殿を造りました。
要するに、天皇家には、そうしなければならない伝統が当時にあったのです。
あの伊勢神宮の建物が、天皇家の出自そのものです。 4隅突出は素人の私でも大国主の活動範囲と一致するという内容を20年以上前から著名な専門家の講演で聞いて知っておる >>1
題目設定が外国人か何かなのって思っちゃうよね
>>639
牽強付会だけで妄想食べて生きてる人はその仲間内だけにしておいて欲しい
なんでもかんでも思いつきで付会する前にまず日本の歴史の勉強からやってみればどうかな?
まず日本の縄文時代は巨木・高木・巨石信仰なんだけどね
中学校で学ぶよ
それを組んだのが三内丸山の遺跡
教科書や専門書に高い石柱まで載ってる
諏訪の高木倒しもそういう精神文化の名残
まえにその縄文時代からの巨木高木信仰を
朝鮮半島のソッテだとかいう人がいて唖然
たぶん言ってるのはアメリカ人じゃないよ
タカミムスヒは高天彦の社があるところか
対馬が起源といわれている
関西の先住古族の葛城氏はタカミムスヒの後裔で
それが葛城土神の系統でもあるので日本の歴史は
皇室もそうだけど物凄く深くて、付会して解決できる
ものなんて一つもないよ >>637
お前リンク先ちゃんと見てないだろ?
尾張人が内モンゴルに行ったって意味か? 神殿の起源を語るスレでユダヤが出てこない方が不自然だよ >>645
中国に呼ばれた倭という国名から聖徳太子が「日出ずる国」日本という国名で独立宣言したのだよ。 だいたい日ユ同祖論を主張してる人がその辺にいる素人研究家とかじゃないんだよ。
度会神道とか籠神社とか
要は神社の中の神社みたいなところの中の人が主張してるわけで、それ無視するわけにいかないじゃん そもそも神は仏なので
神社も元々は寺院だったし
神社と寺院が似てても何ら不思議ではない >>1
神社の社殿そのものは、日本神道よりも、
仏教の要素から来たものだろう。
日本神道の社殿の元は宮津の眞名井神社の
拝殿のような小さな祠のようなものだろ。
古代の出雲大社神殿の想像図とか言っても、
容積自体は小さいので、たいした人数も収容できない。
外形的に高床で外階段が正面についてて、
インドネシアのdayakのlong houseとそっくりだ。 >>650
度会神道って伊勢神宮外宮だよね
日独伊三国同盟締結の時に伊勢神宮のスタンスはどうだったんだろうか? 寺と神社は様式が全然違う
習合が始まった平安期から混ざった形で作られるもののそれこそ本来は完全に別物
仏教伝来当初の寺の特徴は瓦屋根
そのために神社側は寺をバカにするときに「瓦屋根」と呼んで見下していた
古来双方が全く違う建築様式を持っていたことを示す傍証
仏教の影響などは後の時代から持ち込まれたに過ぎない 日猶同祖論って言っても半島人好きのするどっちかがどっちかの先祖って話では無く謂わばヒトとサルとは同じ祖先を持つって意味の同祖だからなあーどっちがどっちとか言うな 度会も籠神社もどちらも饒速日を始祖とする氏族で
唯一神を主張してるからなあ >>654
天照大神の岩戸隠れの際に建てられた時を告げる鶏の止まり木が由来とされることが多い
アメノワカヒコやヤタガラスの神話にあるように神の使いは鳥
鳥が伝言を伝えにやってくるという考えがあった
双方ともに鳥が門の上に止まって神の意志を伝えている
このために神を迎えるための門を作ったのが鳥居の起源と言われる 日本は漢語的な表現だから始めには隋唐側で「日出る処」と称して居た野党を指して日本と称して居たんだろう
その後に天智統を牛耳った百済系閨閥が白村江会戦大敗後のマッチポンプ敗戦処理をするプロセスで日本を自称した
で冊封されて日本國の誕生と相成った
古代東洋に於いては「國」は勝利により建てられるモノでは無く降伏により封じられるモノだったんだよm9(´・∀・`)
百済式外交は大国に公式記録される部分ではへり下りつつ言動は華々しい現在の韓国人と全く同じ仕口だったんだろうなぁ >>657
饒速日は物部氏の祖神だし
籠神社は奥社名や由緒見るに秦氏系では? 銅鐸に鳥の扮装をしてるシャーマンと思われる人物像が描かれていたり、
仁徳天皇陵で鳥の形象埴輪が多数配置されるなど古代では鳥を何らかの神秘的なものと考えていたことが読み取れる
鳥居はそういう神聖な存在を受け入れるための場所だった可能性があるね >>661
でも籠神社の絵馬には饒速日とイチキシマヒメが書いてあったらしいけど そもそもが、神道は社殿の中に神官などの人間を収容して儀式を行うという
考えは無かったろ。
宮津市の元伊勢・眞名井神社がその代表では?
三重に伊勢神社が創建される頃には仏教の影響が入ってきてたんじゃ?
仏教は公式の伝来時期(552年か538年)よりもずっと古くから民間の交流によって
日本に入ってきてたと五来重などが主張してる。
俺は素人に過ぎんが余りにも意見が少ないので喋らざるを得ないw >>665
伊勢神宮の社殿には渡会氏の娘しか入れないらしいよ
斎王も手前までしか入れないらしい 塩が防腐剤になるのは食物が腐りやすい地域やな
砂漠の民のユダヤが由来とは考えにくい
神輿にしたって同じ
あれは水害のある地域でこそだ
なんで遊牧の民が集まってて神輿担ぐのよw >>652
ひとをいれるもんてはないだろう
誰が入るんだ 日ユ同祖論とかとっくに否定されてるトンデモを信じてるやついるんだな 「お前の国は何というのか」
「えっと・・・わーくには・・」
「倭か わかった」 >>46
宗像大社の奥の丘のほうにある、神様がしろしめす場所みたいなの? 大きな話ばっかりだなあ
秩父の東京から日帰りで行ける山でも、岩に縄か何か巻いて祀ってたりするな
プチ神社?お墓?的な感じ 日本に仏教が初めて入ってきたときも、初期のキリスト教なみに邪教
扱いされてたというねw それが何百年もたって、鎌倉時代あたりに
ようやく馴染んできたわけだねw 神殿はユダヤ
基本
平安京を作ったのもユダヤ
基本だよ キリスト教は、他宗教を
表向きそのままにして中身を
すり替えてしまう癖がある
島原の乱の頃
国家神道廃仏毀釈の頃
スピリチュアルブームの頃
に侵略を受けてるけど
そもそも日本の神社って壮大な日本人の知恵というか、和の装置だからね
外からの宗教の侵略までお見通しというか
それ前提につくられてるからね
外から来た侵略者を神様と祭り上げて、社殿に閉じ込めて
封印して、後の世のなんもしらない日本人に神様として純粋に
祀らせると、あら不思議、侵略者の邪念が浄化されていく >>667
古くから日本には塩に浄化作用があると信じられてきた。相撲で力士が塩を撒くのもそうだし
お母さんが作ってくれた弁当の茹で卵にお清めの塩がついていたのネタで有名なお清めの塩も
嫌な客が来たら塩まいとけって言うのも同じ
ただし 内陸の国だと塩は貴重品だから、日本や死海があるユダヤみたく気軽に塩でも撒いとけ
なんてできないってのもわかる
だからあくまでも可能性の一つ 【古代】古墳時代の出雲人は縄文人寄り
DNA解析で判明 弥生人との混血 進んでいない可能性
◆弥生人との混血 進んでいない可能性◆
古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている――。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析から分かった。古代出雲では、大陸から来た弥生人との混血が進んでいない可能性がある。
出雲市の出雲弥生の森博物館で昨年12月、同市の猪目洞窟遺跡で1948年に発見された古墳時代(3〜7世紀)のものとみられる人骨のDNA解析結果の報告会があった。 多分、環太平洋に住んでいる人はいた。
そこへユダヤの文化を引き継いだ一団がやってきた。
大きな影響を与えたが、ユダヤは選民思想なので、他社を同化することなく終了。
元々住んでいたひとも、ユダヤの文化の都合の良いとこだけ取り込んだ。
そんなとこではないかと思ってる。
証拠は無い。 >>655
というか、神社が寺院から分離したのだ
寺院が先にあり、神社が後から出来た
神社が出来たのは明治時代以降 中国では実際にユダヤ人コミュニティーが発見されてるが日本で同種のユダヤ人は発見されていない
これが全て
本当にユダヤ人の末裔ならちゃんと自分らのことをユダヤ教徒だと自負してるはずだよ 平安22社は畿内ヤマト権力以外は除外されて
いるから逆に分かりやすい。
物部曽我継体も同様。天神も菅原、八幡も
男山、箱庭の狭い平安おじゃるの世界観。 >>687
混血は進んでますよ。なぜなら母系はアジア系が優位だったから。
ただこの結果はアジア系が元々いたところに
D系統があとから入ってきたことを示唆している。
南米なども母系は現地系が優位で男系は欧州系優位。
そして縄文人優位だった関東のアジア系が出雲より優位だったことは、
関東へのD系統進出が出雲より遅かったことを意味する。
神道と係わりの深い中臣氏や忌部氏はアジア系で
神話の上では天照大神を彼らが迎える形になっていることとも符合する。
従来の縄文系、弥生系の概念は覆ってしまう。 >>651
>神は仏なので
これ誰がいつ決めたの決まったの?
お前さんの勝手な決めつけと思い込み(思考停止)なんじゃね? そもそもとして旧石器時代は大陸とも地続きだったわけで、
そこにアジア系が入ってこず。弥生時代になってから海を渡って入ってくるというのは
地政学的にはかなり無謀な発想。
アジア系である中臣氏の根拠地から旧石器時代の遺物も出てくるから、
元々列島にはアジア系がいたと考えるのはごく自然な発想。 >>695
神が仏の姿でどうのこうのこうのって説な
ググればあると思うぞ 神道という概念は仏教伝来に対して、もともとあった各地の民間信仰をまとめるために導入されたもの。故に統一的な経典はない。
そういう意味では土着系ともいえるのに対して、仏教は国策で導入された宗教という歴史を持つ。
これはキリスト教がローマの国策で導入されたのと同じだともいえる。 >>693
男山と言えば樟葉の辺りか樟葉と言えば北極老人だな、北極老人が住むくらいだから何かあるんだろうね >>695
代わりにググってやったぞ感謝しろよ
本地垂迹の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞典
ほんち-すいじゃく【本地垂迹】
日本の神は、インドの仏や菩薩ぼさつ本体が人を救うため、
神の姿を借りて現れたということ。また、そのように仏教と神道とを融合させた考え方を指す場合もある。▽仏教語。「本地」は仏・菩薩の本来の姿のこと。「垂迹」は仏が借りたいろいろな神の意。「地」は「じ」とも読む。 >>692
そんなことはない
聖書の預言ではエフライム族はエルサレムに連れ戻されるまでヤハウエを捨てて偶像崇拝することになっている。
もしエフライム族の子孫がいたとしたらその預言を守ろうとするはずだ。 >>691
神仏混交時代の寺院上位はあったし
神社建築の成立に仏教伝来が関わってるとは思うが
明治期まで神社が単体で存在し得なかったなんてことはないよ
現に明治政府も多過ぎる神社の整理という建前で神社合祀令を出している
ちなみに神社合祀令の真の目的は鎮守の森の木々を伐採して木材化し金を得ることだった >>702
現在の神道は国家神道由来
国策で明治時代に導入された宗教なの
二礼二拍手一礼とか明治時代に決めたの
それまで神社では経を唱えていたし
写経を納めていた
だから神社にも御朱印があるの
つまり、現代人が神社と呼んでいるものは
明治時代に仏教から分離させた成分であり
本来あった古代神道とは繋がりが無い >>692
いまのユダヤ人ってエセが大半だぞ
聖書の教えを守ってる純粋なユダヤ人はキリスト教に改宗しているだろうし
いま残ったユダヤ人はキリストを十字架にかけた連中の末裔と途中から入ってきた異邦人の金持ち >>705
本物の十支族なら守る人もいるのではないかと思う。 神=仏
分かりやすく例えれば
古坂大魔王=ピコ太郎
分けて考える方が変なんだよ >>666
>>伊勢神宮の社殿には渡会氏の娘しか入れないらしいよ
斎王も手前までしか入れないらしい
じゃあ、大きな社殿は全く必要ないわけだ。 神仏習合は勘違いされることが多いが仏教側からの一方的な話
勝手に「神は仏の化身で下位の存在」といわれてる
当然、神道側は別に受け入れてもいないし納得もしていない
神道側からもそれを否定する説が提示されているが仏教勢力があまりにも巨大すぎて反論の声がかき消されてるだけ
たとえば「三教枝葉花実説」や本地垂迹の逆の「神本仏迹説」などが提示されている
一方的な仏教側の「侵略」に対して神道側は勢力的な問題で抵抗できなかっただけ
その反動で明治の時に国学者が仕返しとばかりに過激な廃仏毀釈運動を起こしている >>709
というよりも
元来、古代神道も仏教も、
個別の宗教という概念が無い。
従って、敬うものは神であり仏であり
何ら区別の必要が無かった。
天にも地にも神は宿っており
それは仏と一心同体と考える
区別したのは皇室の権威を高めるための政策
この政策は欧米の宗教感なの
一神教的視点だと、分けねばならないから
アッラーとヤハウェは別物と考えるから
神道的視点なら尊崇するもの全てが神であり
仏なの >>709
神仏習合の最初は仏教受容問題で蘇我氏と激しく対立し
蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足が中臣氏の根拠地でかつ
物部と関係の深い場所に建てた山階寺であることは歴史的に明白。
これによって対立から融和の時代へと踏み出した。
その後壬申の乱で天武天皇側が勝利し。
山階寺は奈良に移転し興福寺となり同時期に中臣氏の神社である春日大社が成立し神仏習合の基礎ができる。
伊勢神宮や多くの神社が形式を整えていったのもこのころ。
しかし天武天皇が中央集権のために唐から取り入れた官僚制度などとともに
仏教勢力も大きく勢力を伸ばし、最終的に大仏建立という一大イベントに行きつく。
ここで再び大化の改新の頃の揺り戻しが国民の貧困を背景に起こり。
中臣氏の根拠地である山科の隣に京都が成立し神仏習合が完成し1000年の都となる。
これらすべてに深く関与していたのは藤原不比等であることはいうまでもない。 江戸時代の仏教は一向一揆の勢力である浄土真宗に対する脅威から、
幕府によって厳しく管理されそれと同時に保護したから勢力拡大に至った。
明治期は討幕運動なのだから、幕府と深く結びついて施政者側に回っていたことが恨みを買った側面があり。それが激しい廃仏毀釈の動きにつながった。
今はその尻尾の時代。 滋賀の伊勢遺跡が気になる
なんであそこの地名が伊勢なのか教えて 葬式仏教が力をつけて神社はショボクレていったイメージしかない。
一部の観光で有名な神社なんかはすごい人だけどね。
観光で食っていくのと、あとは七五三かな。
寺と同じでイベントで稼ぐのとお守りお札なんかを売りつけたりする場所だね。 >>677
籠神社の宮司家の海部氏は家系図が家系図としては唯一の国宝指定になってるような家柄だぞ
裏天皇の都市伝説で名前が出てくる八咫烏、賀茂氏は母系ルーツが丹波だし、
丹波〜丹後の辺りがアマテラス系の本当の本貫地かもしれない >>714
それ言い出したら
東京にある長崎、佐賀、久留米とか何だよって話。 >>715
まさにその通り
仏教と神道の決定機な差は葬式ができるかどうか
江戸時代には平田派の一部が開発した神葬祭が認められたために平田派が資金力を手に入れて大きな力を得た
ところが明治維新の際にその平田派が宗教的な対立を伊勢派と繰り広げたために葬式を禁じられた
そして神社からも追い出されて実質的な力を失うことになった
今は神葬祭も当然認められてるけど僧侶とか言う葬式業者の事実上の独占状態でそのシェアは小さい 棟持柱と急こう配の妻屋根の組み合わせは、東南アジアでも見られる。 ここまで、最も重要なキーワードが出てない。
ぼんくらばっかりだな。 繰り返しになるが神道側は仏教との同一視を嫌ってる
実際に伊勢神宮は僧侶の参拝を禁じていた
仏教を穢れとして神域に踏み込ませない姿勢をとっていた
今でも大宮の氷川神社などは一度も仏教を踏み込ませなかった姿勢を維持している
仏教的な文物の持ち込みを禁止している
神道としての自我を確立してる場所では仏教を受け付けない
これがそもそもの姿 二礼二拍手一礼については元々が古代の宮中での儀礼
当然、記録のない時代の詳細な神社への儀礼は分からない
しかし古墳での埴輪の祭祀再現の様子や、大社造、住吉造の社殿の在り方から神社の祭祀と貴人への儀礼は同一のものと考えられている
そのために神社の拝礼も古来の貴人への儀礼、つまり宮中儀礼に求めたうえでこの方式が採用された
この儀礼は延喜式や内裏儀式にも見える
実際に日本書紀の持統天皇即位の際の群臣の祝賀でも柏手を打つ儀礼が行われている
「もともと」というのを仏教や武士、庶民文化に毒された時期に見るのではなく、より根源的な時代の儀礼に求めた結果の儀礼 >>719
朝日新聞と言う著名なメディアは社員物故者の慰霊を神道形式でやっておる >>722
それは明治以降の廃仏毀釈の尻尾。
春日大社と興福寺の関係を知っていればそういうお馬鹿な発想にならない。
そもそもとして、皇室の菩提寺は泉涌寺。
御寺の僧侶は皇室の血を引く人も多く。
男系継承のために力を借りる可能性もある。
そういう人たちも参拝も伊勢神宮は拒否するのかな。 >>719
高杉晋作の葬儀って神式でやったはずだよ
戦前の公式な慰霊式典は榊を備える神式だったはずだよ
日露戦跡とか榊が備えられてたと >>707
日本語の仏っててきとーに使われてるよなー
死者のことも仏様というし
仏像全般仏様というし
仏陀を指すことの方が少ない >>723
魏志倭人伝に、敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。とあるね 腐りやすくなるにも関わらず柱を土に直接埋め込む掘立て式にこだわったのは
母なる大地に男根に見立てた柱を深々と挿して、太陽に向かっておっ立てることに
宗教的な意味を持たせてたかららしい 別に一神教と日本の神道がそれほど矛盾してるかというとたいしてしてない。
どちらも創造主らしき存在がいて、それをヤハウエというかアメノミナカヌシと呼ぶかの違いである。
アマテラスやスサノヲなどは日本では神といっているがただの先祖霊である。
ただ、大きな違いがある。
ヤハウエは人間に対して物を言ったり賞罰を与えたりするが、アメノミナカヌシは何もしない。 日本の方が後から作っただけあって非常にうまくできてると思うのは、創造主が物をいうと自称神の代弁者が乱立しそういう人が氏族を好きなように操れてしまう。
日本は天皇の近い人しかそれはできないということにしてまあまあその弊害を限定的にしている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています