【歴史】今や推定地50超、邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 九州説、畿内説、東遷説の有力3説 [樽悶★]
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中央の人物が宮崎康平
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200512003641_comm.jpg
今や推定地は50カ所以上。プロ、アマの研究者が激しい議論を繰り広げる邪馬台国所在地論争は、今なお衰える気配がない。日本人を古代史のロマンに駆り立てるブームを巻き起こした背景には、一人の男の熱い人生があった。
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それを探し求め、多くの人々が挑んだのが「邪馬台国の所在地論争」だ。江戸時代以来、学者の間で続けられてきたこの論争を一気に身近にしたのが宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』だった。
宮崎は1917年、長崎県島原市生まれ。早稲田大学卒業後、脚本家となったが、家業の建設業を継ぎ、島原鉄道常務取締役に就任する。しかし、過労がたたり失明。一念発起して各地を調査して歩き、妻の口述筆記で65年から雑誌「九州文学」に連載したものをまとめたのが本書だ。
宮崎は邪馬台国研究を志した理由を、聖徳太子の実在を批判するなどして戦前に早稲田大学を辞職させられた古代史研究者・津田左右吉(つだそうきち)の汚名をすすぎ、「いまこそねじ曲げられた邪馬台国への道と、一部の学者によってもみくちゃにされた歴史のページを庶民の手に取りもど(中略)そう」と考えたからだと書く。
「戦後の日本では、神話を歴史としてきた皇国史観が崩れ去り、新たな歴史が形づくられようとしていた」と大塚初重・明治大学名誉教授(93)は語る。47年に始まった登呂遺跡(静岡市)の発掘もそんな試みの一つで、古代史にもメスが入りつつあった。48年には、騎馬民族が日本列島を席巻したとする江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」が発表され、こうした大胆な仮説が社会に受け入れられた。『まぼろしの邪馬台国』もそんな時代の一冊だった。
その方法論は緻密(ちみつ)で執拗(しつよう)だ。地名の音に注目し、倭人伝に登場する三十余国がどんな国だったかを一つずつ解き明かしていく。そして邪馬台国は「長い渚(なぎさ)や入り江(邪)と海浜の耕地(馬)と岬や丘の畑(台)の国」という意で島原が最有力候補地とした。
本書は高く評価され、出版年に「第1回吉川英治文化賞」を受賞した。注目すべきは、宮崎が古代史などの専門的な訓練を受けていない、いわゆる「アマチュア」だったことだろう。そんな宮崎の受賞は、専門研究者との垣根を取り払い、彼らが独占してきた邪馬台国の所在地論争などに、在野の研究者が本格的に参入するきっかけとなった。
72年には奈良県の高松塚古墳で「飛鳥美人」の壁画が発見され、古代史ブームが起きる。79年には雑誌「季刊邪馬台国」が創刊。83年には安本美典・元産業能率大学教授が主宰する邪馬台国の会が結成され、在野の邪馬台国研究も全国区となった。
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80年代に入ると発掘調査が急増し、佐賀県の吉野ケ里遺跡など、邪馬台国と同時代と思われる遺跡が次々見つかる。在野を含めた多くの研究者が自説を発表し続けた結果、今や邪馬台国の推定地は50カ所を超えた。
■九州説、畿内説、東遷説の有力3説
古代史が専門の鈴木靖民・国学院大学名誉教授(78)はこのような現状を「熱心なのはいいが、アマチュア研究者が中国の文献である魏志倭人伝をきちんと史料批判するのはなかなか難しい」と話す。
一方、歴史書の編集制作を手がける三猿舎代表の安田清人さん(52)は「宮崎さんは、プロの研究者の権威的研究を疑う一方で、自らが足で稼いだ知見を重視し、史料解読を自由に行う点が際立っており、この姿勢はそのまま在野研究者に引き継がれているように思える」と評する。
邪馬台国の所在地を巡っては現在も九州説、畿内説、九州から畿内に移ったという東遷説の有力3説が並び立つ。プロ、アマ交え、激しい議論が続いている。(編集委員・宮代栄一)
■第一線の学者たちを相手に熱弁
《吉野ケ里遺跡などに詳しい考古学者、佐賀女子短期大学名誉教授・高島忠平さん(80)》
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邪馬台国がどこにあったかという古代史上の謎を巡っては長らく論争が続いてきたのですが、現在、考古学者の多くは畿内説を支持しています。それは、小林行雄・京都大名誉教授(故人)が示した仮説の影響が大きい。古墳時代の三角縁神獣鏡が権力のシンボルとして、畿内から列島各地に配られたとする説ですが、私は鏡は祖先神をまつる祭祀(さいし)の象徴ではあっても、分与による政治権力のための威信財ではないと考えます。小林説は再検討が必要でしょう。(続きはソース)
2020/05/15 19:20
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/nc3fa24efa270 >>296
博多駅付近は弥生時代は海中ですからw
住吉神社付近からが陸地。 >>302
知らんのかw
都は動詞なら統べる、総べる
副詞なら全て
今でも中国語では都は全の意味に用いれているよ。 なんか決定的な文書なり遺跡なりが出るまで続くんだろうな >>305
そしてそんなのはおそらく出ないだろうから
終わらない 近畿説は有り得ない
昔の人は知識は無いがバカではない
近畿に行くのなら陸づたいに船で日本海を進む
途中の豪族や山賊に貢ぎ物とかを強奪されずに済むからな >>305
単に漢文の語学力が低くて誤訳してただけだから
遺跡とか必要ないよ
てか、そもそも七萬戸の遺跡が出るはずがないんだよなw >>305
完全一致するような文書は多分無理だろうな。
古代の中国人が東の端にある蛮族の国を、そこまで真剣に調査して記録を残してる訳でもない。
金印が出れば90%位の確度では「ココ」が邪馬台国とは言えそう。
後から移動した可能性も残るけど。 >>307
「近畿」という言葉を使っている段階で
何も知らないド初心者ということはわかった >>305
とっくに出ているよ。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波 >>301
それならもう都は奈良の田原本で結論は出ている。
鍵唐古の近所の保津、都遺跡辺りだよ。
箸墓の百襲姫の生誕場所がここなんだしな。
しかも旧地名は宮古村、つまり昔宮のあった場所と地名からも判る。 >>307
残念、瀬戸内海は卑弥呼=百襲姫と桃太郎=吉備津彦の管轄エリアだからなw
つまり女王国が瀬戸内海の讃岐や吉備にある。 >>315
○○という地名だから△△だとわかる
これはやってはいけないこと
古代史を考えるときの原則のひとつだ >>317
それは君が根本的に間違えてるだけ。単に地名を拾うから間違うだけの話で、
旧地名から土地の遺跡や環境を拾わないから勘違いをする。
田原本は弥生時代の遺跡の点でも全く問題がない、そもそも鏡作神社まであるからなw >>317
伊都国や奴国の場所がほぼ確定したのも地名と遺跡からだ >>307
古代の交通手段は主に海路だからね
だいたい1か月も陸上を移動する道が無いよね。 真面目に考えたら古代朝鮮では?
陸路は無理ゲーだし >>318
>そもそも鏡作神社まであるからなw
いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>320
>だいたい1か月も陸上を移動する道が無いよね。
あるよ。 @阿波 >>322
肝心の水田跡はないけどなw
まあ阿波は邪馬台国の主導的立場のひとつなのは確かだが邪馬台国そのものではない、それだけの話だ。 >>302
都するだと、するで動詞化してるけど
動詞が最後に来ることはないから通説の訳は明らかに誤訳だね
都は所を修飾してる副詞で、全部の意味ですね。 >>316
陸輸だったら常時四方八方警戒しておく必要があるが、海輸だったら必要最低限の武装で問題ない
当時、朝鮮半島から来る船より大きな漁船とかは無いだろ >>320
それは無知すぎる、普通に中国地方なら余裕。
そもそも本州の山陰と山陽側を結ぶ最短高低差はどれ位か知らないのか? >>327
面積的に阿波だけでは七萬戸は無理だからな
七萬戸は九州北部とか関西全体くらいじゃないと
四国全体でも足りないな。 >>332
3世紀にそんな長い中国地方に道なんてないよ。 >>327
>まあ阿波は邪馬台国の主導的立場のひとつなのは確かだが邪馬台国そのものではない
意味が分からんよ、孝霊厨さん。 @阿波 >>332
道はあったかも知れないが整備されていなく大国小国が入り乱れている中では通る度に通行税みたいなものが必要だっただろう
近畿に行くなら日本海の海流に乗って兵庫や福井に上陸した方が効率的
九州に寄港するだけならまだしも上陸するなら畿内説は有り得ない
途中で渡る海は有明海と思われる >>329
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>333
>面積的に阿波だけでは七萬戸は無理だからな
面積云々より、弥生後期集落遺跡の数だよ。 残念でした、孝霊厨さん。
いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>336
阿波君なら何度も説明してあげてるから知ってるだろw
明神山が、ヒルメ山なのもも教えてあげたよな。
百襲姫の母親が阿波の出の可能性が高いし
そもそも淡路島に宮をもっている。 倭人伝に書かれる、その時代の丹の出土は若杉山だけ。
徳島には卑弥呼が闊歩した時期の墳墓跡が多数存在。
古代より神山町の高根山上には鏡を利用した灯台があった。
その灯台を卑弥呼の宮居跡と言われる悲願寺へ移設。
畿内のいたるところに有力墳墓が多数存在。
こう考えると、九州吉野ヶ里一帯で倭国大乱があり、四国東部で卑弥呼が王になり邪馬台国が派生し、その後畿内へ移り大和朝廷が発生したと考えるのが自然。 >>339
>阿波に行くなら穏やかな瀬戸内海を通る
それは、雄略天皇以降の話。 @阿波 >>337
文章の結論にあまりにも独善的な解釈が見られるから、畿内説否定の説明にはなってないよw >>342
>明神山が、ヒルメ山なのもも教えてあげたよな。
相変わらず、くだらん伝承頼りだね。 いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>172
いやー無い無い
じゃあなんて訓じるんだ?「女王の所の全ての」か?
それこそ意味不明だろ ロマンや、夢やwww
えーの、それで飯食えてwww >>341
9世紀ごろでも阿波の人口は7万人いないですけど?
戸数じゃなくて人口がですよw >>343
紀伊半島では弥生時代中期の時点で水銀朱精製跡が各地にあるし内陸部では伊勢の松阪から宇陀までの河川沿いにもあるよ。
それに当時の河内では大陸と共通の量り、分銅を用いて計量もしてる時点で紀伊半島が交易してるのも確定事項だからな。 鯨統一郎は亡くなったんだよな
私は「邪馬台国はどこですか?」で完全に九州発と信じた >>346
でも君が証拠に上げてる資料には、私が以前から提供しているものが多々あるんだけどねw >>344
朝鮮半島から九州にくる技術があったんだから関門海峡を通って瀬戸内海を通るのは簡単
九州に上陸して更に門司から船で下関に渡って陸路を進む理由はない >>347
訓じるなら「女王の都(すべ)ての所」
意訳して「女王の全領土」 >>350
>それに当時の河内では大陸と共通の量り、分銅を用いて計量もしてる時点で紀伊半島が交易してるのも確定事項だからな。
それ、河内忌部だよ、孝霊厨さん。 わははははは @阿波 >>345
朝鮮半島から九州までくる技術を持った集団が危険を冒して陸路を選ぶ理由はなんだ?
関門海峡は船で通らなきゃならんのだぞ >>355
その説明は邪馬台国畿内説とは何の関係もないぞ、阿波君w
元々日本史の阿波スレは元々私の隔離スレだぞ、阿波が邪馬台国ではない事は確実な。
邪馬台国をする主導的な立場なんだからw >>357
>朝鮮半島から九州までくる技術を持った集団が危険を冒して陸路を選ぶ理由はなんだ?
そりゃ、倭国(阿波)へ行くためだよ。 @阿波 >>357
そりゃ山中で鉱物資源のひとつでも探すだろ。
それに安全な陸路があったから投馬国から邪馬台国に至る陸路が説明されてるだけの事。 一行の人数が2〜30人だとして、野営している時に50人ほどから弓矢で闇討ちされたら如何に最新の武装していても勝ち目はない
邪馬台国の周りには敵対国があったと聞く
そんな奴らが特使を易々と通すとは思えない
陸路を選ぶのはバカ
出来るだけ沿岸から矢が届かない海路を選ぶはず >>347
魏志倭人伝には「女王之所都」とある
「女王之都所」なら女王の首都だけど
読み下し文を書いた人が勝手に原文を捻じ曲げて読んでたんだ。 >>354
いやーそれは無理だろ
都を「全ての」と読んで返り点打つのは無いよ >>362
>そりゃ山中で鉱物資源のひとつでも探すだろ。
「若杉山辰砂採掘遺跡」が最たるものだね。
>それに安全な陸路があったから投馬国から邪馬台国に至る陸路が説明されてるだけの事。
その通り。 往古より、旧土佐街道はメインルート。 @阿波 >>361
結局君はただの煽り屋さんなんだろ?
長く書き込みを見てるがまともに論じる事はないからな。 >>360
近畿地方だったら日本海か瀬戸内海をそのまま九州に来た船で進む
出来るだけ陸路を通らない事が旅の安全だから 邪馬台国は半島にあった。
だから日本をいつまで探しても見つからないのだ。 >>363
>出来るだけ沿岸から矢が届かない海路を選ぶはず
だから、水行十日と陸行一月の2段構えなんだよ。 @阿波 >>371
水行は有明海
敵対する部族を避けて海路で有明海を渡った >>366
実は若杉山も色々調べてたのだが、やはり定住ではなく季節ごとに期間を決めて滞在していたと見ている。
まあ常に往来をしていたような場所とは言えない。元々海側から採取目的でゆくような場所だよ。 >>365
「都する所」でも返り点打ってるけど?
そもそも「都する所」の都するが動詞なのか副詞なのか意味不明な訳なんだが。 >>367
>長く書き込みを見てるがまともに論じる事はないからな。
君が名無しで投稿するからだよ。 逃げてるんだよ。 わははははは @阿波 >>369
「全ての」はなににかかってるの?
副詞だけ宙ぶらりんに返り点はないだろ…
あと「都所」「所都」で異同あるの?
お前が勝手に見間違えだって言ってるだけ? >>375
君の書き込みはただの顕示欲からだけどなw
いつまでかまって君みたいな事してるんだよ? >>373
>実は若杉山も色々調べてたのだが、やはり定住ではなく季節ごとに期間を決めて滞在していたと見ている。
徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性 @阿波
(徳島県立博物館1997・岡山1998) >>376
「都所」この場合の都は前にあるから統べる、総べるの意味で動詞、統べる所
「所都」所が後だから動詞ではなく所を修飾する副詞で全ての所。 >>378
君は名無しで投稿して、逃げてるんだよ。 わははははは @阿波 有明海を水行としたら熊本県の南部以南はあり得ない
それだったら途中で陸路を通るより、九州北部に寄港の後そのまま船で長崎県を回って天草方面にたどり着いた方が効率的
だから邪馬台国は福岡県の南部か熊本県の北部と思われる
俺の予想では熊本県北部のトンカラリン遺跡があるところ
ここは大陸からの影響を強く受けていて呪術が行われていた痕跡がある
近くには江田舟山古墳があり、ここは日本最古の漢字が記載された刀剣が出土して国宝に指定されている
邪馬台国が衰退して後は、あちこちから埋葬品が持ち去られたのだろう >>376
「都所」・・・統べる動作をしている場所・・・首都の意味になる
「所都」・・・全ての場所・・・領土の意味になる。 >>379
また只の転載が始まったw
その転載した資料で私に対抗するのは無理な話だぞ。
何度も言ってるが阿波は邪馬台国ではない、邪馬台国を畿内に形成する主導的勢力がいた場所にすぎない。
君の大好きな忌部氏がその証拠だろw >>384
>だから邪馬台国は福岡県の南部か熊本県の北部と思われる
そんな内陸に邪馬台国が興るわけがない!
南に黒潮流れる温暖な海が無く、東にも海が無いようなところに「邪馬臺国」など興るわけがない。 なにを考えているのやらw @阿波 >>388
邪馬台国の大きさは不明
大分方面まで勢力を拡大していたら東に海がある >>387
>その転載した資料で私に対抗するのは無理な話だぞ。
なんで? トンズラ君。 わははははは @阿波 やっぱり畿内説はないな。残念だけど、しゃーないね。 >>388
むしろそんな襲われそうな海岸に都があるはずがない。
やり直し >>389
>大分方面まで勢力を拡大していたら東に海がある
だったら、東の海辺りだよ。 内陸部は論外! わははははは @阿波 >>390
やはりただの煽り屋だなw
本当は阿波説でも何でもないとしか思えないぞ。 >>394
>その転載した資料で私に対抗するのは無理な話だぞ。
なんで? トンズラ君。 わははははは @阿波 いずれにしても畿内説は、なぜそのまま海路を船で進まなかったかという疑問が解決されない限り無理がある
何度も言うが古代人は知識は無くても馬鹿じゃない
如何に目的地に楽して安全にたどり着けるかを日々考えている
敵対部族や山賊に襲われる可能性のある陸路はなるべく避ける >>388
阿波に古墳が集中しているのは吉野川沿いじゃん。
内陸部とは言わないが海や黒潮とはあまり縁のない地域だな。
ただ淡路島には何かありそうではある。記紀にも国産みで淡路島の事が
書かれているし、最大の銅鐸が発見されたのも淡路島なんだろう。
ヤマト王権の成立に淡路島の勢力が1枚噛んでいたんだろうけど
邪馬台国とは関係ないな。 3世紀畿内は出雲の属領だからな
鏡とか言ってっけど近畿の主流は銅鐸で
後の時代にはその銅鐸の用途すら忘れてるという
つまりは九州から白村江の敗戦で残存勢力が近畿へ遷都し継承権のない天智が作り上げた別国だからな。 邪馬台国が畿内にあったんなら狗奴国とか他の諸々の国は何処にあったのよ
当時の考古遺物の数量等見ると近畿よりも九州の方が大都会だぞw
近畿にあれだけの国があったと言われても説得力ないんだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています