【歴史】新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述 [ごまカンパチ★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://news.yahoo.co.jp/articles/853bb56f5a737cb5d9bf97a73c056633ec688555
幕末に活動した新選組が洛中最後の拠点とした「不動堂村屯所」について、直前に屯所があった西本願寺(京都市下京区)の古文書に、
移転先を現在ホテルがある下京区堀川通塩小路下ル松明町一帯の「西九条村」とする記述があるのを、新選組のふるさと歴史館(東京都)の元館長が見つけた。
移転に関わった寺院の史料だけに、専門家も確定的とみており、諸説ある議論に終止符を打つ可能性がある。
新選組は中京区の壬生寺近くの前川邸・八木邸、西本願寺を経て、1867(慶応3)年6月から半年ほど、不動堂村屯所を本拠にした。
会津藩傘下の浪人集団から幕府直参になった最盛期に重なり、隊士も200人ほどに膨らんだため、より広い場所を求めたという。
ただ、同屯所の立地を示す資料は限られ、複数の説が示されていた。
新選組のふるさと歴史館元館長の藤井和夫氏は、昨年夏に調査した西本願寺の「本願寺文書」で、慶応3年3月の諸日記に「新選組屯所引移地所」の記述を見つけた。
「西九条村ニおゐて御買入」「字松明田」との地名が入り、「南北六十弐間(約113メートル)、東西四十間余(約73メートル)」「代料金七百両」といった
長方形の土地や購入の金額も書かれていた。
広さは大名屋敷並みの約8200平方メートルに及び、西本願寺側が土地などを用意した抱屋敷として建て、新選組に貸したとみられる。
藤井氏は「一連の文書は西本願寺側が新選組の駐屯に迷惑し、一刻も早く境内から出てもらいたかった様子をあらためてうかがわせる。
これまで同寺の侍臣、西村兼文が明治時代に残した記録に基づき、不動堂村屯所と称してきたが、『西九条村屯所』の名称が適切だ」と指摘する。
幕末維新期に詳しい宮地正人・東京大名誉教授は
「西本願寺という当事者が記した一次資料に基づく考察のため、確度はかなり高いとみて良い。この屯所への移転は、新選組が幕府直参になった時期に当たる。
同寺側の思惑に加えて、幕府がどのように関与したのかといった背景も検証したい」と話している。 新選組って土方がイケメンじゃなかったら、ここまで人気になってなかったと思ふ(´・ω・`) 少し前に誰かが近藤の顔をデジタル処理してみたら
実は近藤もゴツ目のイケメンだった、と軽い騒ぎになった事件あったな。 「分かる人にはわかるヤバいやつ」NHKでパチンコ店の様子が報道されるも“写っちゃいけない写真“が放送されていた
http://cmlspi.aiiyah.org/gx?8i7aii1ze1y/ls233i815j7.html
居酒屋が出していたテイクアウトのお弁当で『うに丼1枚まるまる弁当』が1000円で売られていたので気になって注文してみたらとんでもないものが来てしまった
http://cmlspi.aiiyah.org/hb?ohhyb2jmmq5x/tpjjd2yi2hv.html 新選組って誇張され過ぎているね。
「池田屋襲撃」で討幕派に火を点けただけ。
京都では「壬生狼」と言われ、毛嫌いされた浪人集団。
あの隊服ですら、近藤勇が京の呉服問屋に頼んだが代金を踏み倒したという。
しかも目立つので隊員は殆ど着なかったという。
幕末志士との戦闘もよりも内部粛清による切腹による犠牲者が圧倒的に多かったと
言う。
しかも、池田屋襲撃以外は圧倒的に弱かった。戊辰戦争では負け続け遂には四散して
土方歳三と隊士数名だけが箱館戦争に参加して戦死。
他の主だった隊士は明治以後も生き続け、斎藤一は警察官を経て女子高の警備員になって
生涯を終えている。永倉新八は、刑務官の剣術師範を経て、後の北海道大学の剣道部師範
になって生涯を終える。
沖田総司は東京に落ち延び、新選組のお抱え医師だった男の家で吐血。病死している。
近藤勇は捕縛され斬首。 松明町って、不動堂村屯所とされている場所と、ほとんど変わらんぞ
つまり、どっちでもいいんだろ 京都駅が昔の京の端ってことは駐屯所も端にあったってことか >>7
長州側に目を光らせる意味合いもあったらしいよ 当時の幕府と今の自民党、どっちが腐敗してると思う? 山本太郎が新撰組名乗るのはおかしいよな
新撰組は保守本流なんだから
あえて名乗るとしたら奇兵隊か海援隊だろ >>14
壬生も当時は市街地の西のはずれ。山陰線が境界線、阪急大宮駅は西の玄関。 >>12
あるよ
あいつら村おこしのためなら卑弥呼も新選組も平気で利用する ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています