【群馬】「よろいを着た古墳人」火山の下から覚醒 渡来系の特徴、正体は? 「専門的な技術者集団の村があり、そこの長だったのでは」 [樽悶★]
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古墳人が身につけていた甲(よろい)=群馬県渋川市北橘町、県埋蔵文化財調査センター発掘情報館、柳沼広幸撮影
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200613-00000032-asahi-000-1-view.jpg
火山と共に暮らす群馬を象徴するような発見だった。榛名山のふもとの渋川市金井の金井東裏遺跡で8年前、古墳時代の人骨が甲(よろい)をまとった姿で見つかった。「甲を着た古墳人」の発掘は日本初。噴火による火砕流の犠牲者が1500年の永い眠りから目を覚ました。
甲は、小さな鉄の板(小札(こざね))1800枚を絹糸の組みひもでつなぎ合わせた当時の最新技術だった。人骨の下には冑(かぶと)も。別の甲も巻いた状態で見つかった。中にあった鹿の角で作られた小札の発見も国内初。銀と鹿角(ろっかく)で飾った矛(ほこ)も発掘。人骨は40代の男性で身長は164センチと推定された。渡来系の特徴があった。
男性は榛名山の方に向かってひざをつき、うつぶせに倒れていた。「山の神に祈っていたのか、戦いを挑む姿をみせて邪(じゃ)を払おうとしていたのか」。発掘調査した県埋蔵文化財調査事業団の杉山秀宏・上席調査研究員は、発掘状況や遺物から、災厄を避ける儀式を行おうとしていた可能性があるとみている。
甲や冑、武器は装飾的で、実用というより権力の象徴とみられる。近くでは朝鮮半島から伝わった馬が育てられ、鉄器や鹿角器が作られていた。「専門的な技術者集団の村があり、そこの長(おさ)だったのでは」と杉山さん。首飾りと一緒に見つかった女性「首飾りの古墳人」や、5歳前後の幼児、乳児の人骨も発掘された。人の足跡や馬のひづめ跡、祭祀(さいし)跡からは大量の土器。火砕流で人々の営みが一気に埋まり、当時の生活ぶりを今に伝えている。(柳沼広幸)
6/13(土) 16:55配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200613-00000032-asahi-soci >>1
兄妹や姉弟のことも「きょうだい」と読ませる日本は
男性至上主義社会だわ
後進国だわ 鎧の語源はヨロヨロする
重くてヨロけるさまを表す形容詞のヨロい >小さな鉄の板(小札(こざね))1800枚を
小札は日本独特でしょ 40代祈祷師「俺が祈りで食い止めている間にお前らは逃げろ!」
火砕流「やあ」
40代祈祷師「ぎゃああああああああああああ!」
こんな感じだったのかね? 古代史になると朝鮮半島の影響ばかり強調するが
日本が朝鮮半島を支配してたことは全く黙殺 別に覚醒はしてないだろ
ゆとりが社会人になって日本語がめちゃくちゃになってるな 丸顔
一重まぶた
ヒゲ体毛ほとんど生えない
耳たぶない耳アカ湿らない
短い手足ちん子
低い鼻いわゆるニンニク鼻
まだ何か特徴あったっけ ぐんまーはハチャメチャ過ぎて
何言ってるのか分からん。 縄文時代じゃあるまいし渡来系(大陸系)の特徴なんてないだろ >>4
あながち間違えてないが、
> 古墳出土甲冑についての考古学的な研究史は明治期に遡る。
1898年(明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、古墳時代の「挂甲」と呼ばれているタイプ)について、
小杉榲邨が『東大寺献物帳』にみえる「短甲」であろうと報告したが[5]、
3年後の1901年(明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広の鉄板を連接した板造り形式の甲を、
沼田頼輔が有職故実研究の大家として知られていた関保之助の教示を受けて「短甲」と呼んでして報告した[6]。
これ以降、古墳時代の板造りの甲を「短甲」、札造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向が定着していき、
1913年(大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている[7]。
国内では七支刀と合わせて国宝クラスなのは間違いない
実際グンマーは大和の次の国だから 遺跡の管理にも金が要るからね。話題作りに必死だね。大変だね。 ハワイなんかでも火山の噴火の時に王家の人に祈ってもらったりしてたから、神と交渉する?のは高い身分の人の仕事なんだろ >>17
自らが犠牲になって身を捧げる代わりに、
村をお守りください!かもしれない
跪いて生きたまま焼かれて死んだ
死ぬまでは生きてたかもしれない >>1
> 渡来系の特徴があった。
> 近くでは朝鮮半島から伝わった馬が育てられ
まぁ朝日新聞らしい記事だわなw 上野国(グンマー県)には大勢の新羅人が住み着いたニダ
大和朝廷に差し出す軍馬を飼育したニダ
だから軍馬が群馬になってグンマーになったニダ グンマーは内陸国だから鉄の重い鎧とか身に付けたら暑いだろ
大変だったろうな… 去年も同じ報道があったよ
長野を経由して榛名まで来たとか
あれはNHKかな? 大化の改新の前に群馬に鎧があったのか
どこの豪族と戦ってたんだ でも関東だから住民は夷(エビス)なんじゃねーの?
要するに土人 >>21
ティファニーで朝食に出てくるミスターユニオシみたいな人
ありゃ水木しげるが描く日本人と同じで特徴をよく描いてるよ。 >朝鮮半島から伝わった馬が育てられ
考古学は、なんでも朝鮮から伝わったと考える病にでもかかってるのか? 話の途中で唐突に「渡来系の特徴が」「朝鮮から伝わった馬が」って話を挟むのはなんかの制約があるのw? >>36
クソ間違いだよ
まず毛野国は蝦夷退治の最前線だったから、
東日本最大の天神山古墳が太田市にある。
ここに地元の豪族である上毛野氏がいた
>氏の名の「上毛野」に見えるように、
古代に上毛野地域(現・群馬県)を拠点とした豪族である。
「毛野(けの/けぬ)」とは古代の群馬県・栃木県周辺を指す地域名称で、現在の北関東に比定されている[1]。
毛野地域のうち「上毛野」は「上野(上野国)」に転じ現在の群馬県に相当し、
「下毛野」はのちに「下野(下野国)」に転じ現在の栃木県に相当する。
群馬県には数多くの古墳が築かれ、古代日本において有数の勢力であったと考えられている(詳しくは「毛野」を参照)。
その後、
> 大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」[注 2]と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、
朝廷の中級貴族として活躍を見せた。
『新撰姓氏録』にはこれら6氏族が上記の伝承を共有したことが見えるが、
その他にも多くの氏族の伝承共有が同書に見え、その数は合計で40氏弱にも及ぶ[3]。
それら関係氏族の経緯・広がりや毛野との関わりについては、未だ明らかとはなっていない。
8世紀後半以後は、その東国出身氏族とは別に渡来系氏族が「上毛野」を仮冒し、
外交交渉や学問の素養で名を表して以後の氏族における中心をなした[4][注 3]。 >>40
歯に含まれているカルシウムだかから男性は長野県で生まれ育った人で馬の飼育指導者として招かれたのではないかとかいうのあったよね
近くから男性の家族と見られる女性と子供2人の骨も見つかったんだよね 朝鮮はいろんな民族が混じっちゃったから
百済新羅高句麗加羅どの民族か今ではわからないのか グンマーとかサイタマーて言うとスカイリムに出てきそうだ >>36
さらにこれ
> 世紀には、白村江の戦いにおいて、
倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が朝鮮半島に派遣され一定の戦果を収めたたほか、
三千は『帝紀』と上古諸事の記定に携わり、いずれも中央貴族として活躍した。
天武天皇13年(684年)には上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜り、
中央の中級貴族として活躍した。
また、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに『大宝律令』の編纂に関わり、
のちの三戒壇の1つの下野薬師寺を氏寺として建立したとも伝えられる。
というわけでガチの上級です。
新羅つうか、百済なら、
>『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命五世孫の多奇波世君の後」と記すとともに
「天平勝宝2年(750年)に田辺史から上毛野公と改姓した」と注記されている[原 16]。
この多奇波世君(たかはせのきみ:竹葉瀬に同じ)の後裔と記される氏族は
他にも住吉朝臣・池原朝臣・桑原公・川合公・商長首があり[原 17]、
これらの氏族は渡来系のグループと解されている[8]。
『日本書紀弘仁私記』序においても「諸蕃雑姓」に注として、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣4氏が百済からの渡来人でありながら竹合(竹葉瀬に同じ)後裔を仮冒したことが記載されている[8]。
だから倭人皇族。百済なんでね >>46
ネタが古過ぎて相手にされない寂しい高齢者だね。 >>52
白村江の戦いで日本・百済連合軍は完敗したが、敗因の1つが馬を使えなかった事だ
大和朝廷は敵国である新羅人を群馬に招いて軍馬の飼育を行ったと言う
歴史的事実がある。 >>25
ワカタケル鉄剣ハックツのきんたまは何番めなの? >>39
そんな物は存在しないが
大学教授達が必死になってる
この記事でも
朝鮮半島由来の馬じゃ馬具じゃ
そういうお馬鹿な妄想オナニーを定着させたい勢力の一味。 白村江の戦いって、舟の戦い、海戦だったんじゃないの? >>60
500年後のチンギス・ハーンでさえ
船で馬を運ぶのは諦めた。
お前も妄想オナニー一味 >>49
しゃーない
日本初期に書いてあるから。
んで藤原氏の奥州が軍馬の育成してたとこ
平安期までは欧州藤原氏の領内で日本刀と馬を生産してたから、あそこに帝国築けたわけ
んでその二つを使いこなせるのが東国人
のちの坂東武者。
技術は確かに高句麗または高麗とされる
特に鎧がそう
んで宿直とか殿守とかやってんの
これは薩摩隼人と毛野人だけ。
んで平将門の乱が起きて、上野国府が占領されて、
東国防衛軍事屯田兵が新田氏。
分家に足利氏。ほかに世良田さらに分家に得川氏がいる
北壁と呼ばれた清和源氏。
仲間に栃木から茨城に桓武平氏も置いた >>35
朝日かw
チョウセンジンが記事を書いているというw だから毛野国は魏志倭人伝に書かれてた狗奴国だって言ってるじゃん >>60
それは妙だな
てか
>>36がそもそも間違えてて、
県の真ん中に群馬郡があったから群馬になった。
軍の馬は関係ない
それより厩橋から前橋になったことでも触れたらいんじゃね? >>70
なんだけど
こと古代史は、中核をなす大学教授達がもうシナチョンウイルス感染者 群馬に渡来した新羅人はのちに吉井連(よしいのむらじ)と言う日本名を拝領している
高崎市の近くに吉井と言う地名があったな。あのへんに住み着いた訳だ
従ってグンマー人は目が一重瞼で細く吊り上がっている者が多い >>62
サキタマ古墳群の話してんの?
>
『日本書紀』によると534年、
安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ、おぬし[2])が武蔵国国造(武蔵国造)を任命され、
埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。
何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、
笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという説[要出典]があるが、まだ不明確な点が多い。
古墳群は5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられている。
だから3世紀の卑弥呼代よりあと
このうちの一つが
>
稲荷山古墳(いなりやまこふん、埼玉稲荷山古墳)は、
埼玉県行田市埼玉にある古墳。
形状は前方後円墳。
埼玉古墳群を構成する古墳の1つ。
国の特別史跡に指定され(特別史跡「埼玉古墳群」のうち)、出土品は国宝に指定されている。 蝦夷退治というのは実際には無くて、現地の神道を崇めるおそらく台湾辺りからの渡来民族と原住民の融合みたいな氏族と
大和朝廷の命を受けた討伐部隊が実際は現場で手打ちして和解する形で東北へ進出してったなんて話らしいけどな
八王子辺りにその痕跡が残ってるとか聞いたな
牛の神様を祭る神道系の土着?豪族と大和朝廷が和解して神仏混合みたいな感じで >>76
悔しがるなよ、チョン
本貫くらいあるだろ?いってみ >>69
徳川の起源って世良田近隣の徳川であってるのか >>1
>榛名山の方に向かってひざをつき、うつぶせに倒れていた。
公道バトルでもやってたのかよ 渡来人とやらが、なぜ、群馬の山奥に流れ着いたのか。
そっちのほうが謎だろ。 上野三碑は有名だが、その中の多湖碑は新羅人が作った物と言われている >>84
ふーん
坂上田村麻呂はなかったと。
んじゃ清水寺は存在しねえな >>88
ヤマト政権が隔離政策をとったから
大陸から来た連中が国民に悪さしないように
関東はその最大の隔離地 >>33
身長や各部位の長さの比率などの骨格じゃないか
この時代の日本人なら164cmはかなり大きすぎる >>93
日本アルプスの向こうだから當時の西日本人からしたら異国だな 狗邪韓国ってどうなの?
狗邪韓国は倭の西北端とする(後漢書)
西北端?九州が韓国?それとも半島に倭領土があったの? >>86
得川と書く。
世良田分家なんで、氏は世良田使ってる。
これが愛知三河に足利についてったまでは本当
> 得川氏(えがわし、とくがわし)は、
平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族。
清和源氏新田氏の一族。
新田義重の四男・義季とその子である得川頼有(下野守、下野四郎太郎)を祖とする。
新田郡(新田荘)得川郷[注釈 1](現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。
書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。
ここは岩松に譲って本家消滅。
次に歴史に出るのはこれ
> また、戦国時代に常陸国の佐竹氏に仕えた徳川氏も、世良田義季(得川義季)の後裔と称した。
常陸徳川氏は江戸時代に至って主君佐竹氏に従い出羽に移り、秋田藩に仕える。
この徳川氏は水戸徳川家とは別系統の「徳川氏」として堂々と通した[3]。
> なお、のちに三河国に興った松平氏は、松平清康のとき、世良田氏の後裔だと源氏を称する。
清康の孫である家康は、三河守任官を朝廷に働きかけて
正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された。
この辺は群馬県太田市の新田家分家、新井氏の新井白石が調べあげてるから読んでみ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています