1947年、最初に法案を提出したのは産児調節運動家の加藤シヅエ衆院議員ら社会党議員3人。戦中に定められた国民優生法では実質的に強制されていなかった障害者の不妊手術の強制力を強める法律だった。

 当時は兵隊が戦地から復員し、第1次ベビーブームのさなかだった。年間の出生数は現在の2・5倍にあたる約270万人。食糧難の時代でもあった。

 また、人の才能は遺伝し、人為的な選択で優れたものが生まれる、とする英国の学者フランシス・ゴルトンが提唱した「優生学」がまだ否定されていなかった。

 最初の案は、女性の権利を守る立場から、中絶を認めるなど家族計画を重視することに主眼を置いたものだった。加藤議員は国会で、当時の国民優生法について「軍国主義的な産めよ殖やせよの精神によってできた法律。手続きが煩雑で悪質の遺伝防止の目的をほとんど達することができなかった」と批判。「むしろ出産を強要することを目的とし、婦人たちは苦しんでいる」と訴えた。

 また、「文化国家は人口の問題に対して一定の計画性をもつことは絶対に必要」と主張した。ただ、このときは、法案は審議未了で廃案となった。

 翌48年、優生規定を強化した修正案が社会党や保守系の超党派で提出され、全会一致で可決された。中心を担った医学博士の谷口弥三郎参院議員(民主党)は法案説明で、「敗戦で狭められた国土に8千万人の国民が生活しているために食糧不足は続く」と人口問題を訴え、対策として産児制限を挙げた。

 「子どもの将来を考える優秀な方が制限し、低能者などが行わない結果、国民素質の低下すなわち民族の逆淘汰(とうた)を起こす」と主張。強制手術の対象について「社会生活をする上で不適応なもの、生きて行くことが悲惨であると認められるもの」とした。