保存会が守りたい伝統


1962年(昭和38年)、送り火に対する京都市の助成金が少なすぎ、また人手も足りず崩れた火床の補修もままならないこと[* 35]、
市が地元民の会談の要請を無視して大文字の麓の韓国学校に建設許可を与えたことへの反発により[* 36]、
8月12日、大文字保存会は送り火の準備作業である山道と火床の整備を停止。


1980年(昭和55年)2月、火焔・残り火の消火、および万が一それが類焼に及んだ時などの責任の所在を問題とし、
また前年7月よりの申し入れにも拘らず市・消防当局の対応に誠意が見られないことを理由に、大文字五山保存連合会は送り火の中止を決定した。
これまで消防側は「(焚火と同じで)火を点けた者が責任をもって消火するべきである」としており、
また万が一の類焼時には地元民に全ての責任を負わせるかたちとなっており、
保存会側は過重な負担を強いられていると主張[* 38]。結局は5月に京都市が残り火に責任を持つとすることで合意し、
送り火は継続されることになった。このほか、送り火当日の一般人の立ち入りも制限されることとなった[106][107][* 39]。




金は欲しいけど責任は取らないという伝統があるそうです。