【歴史】「壬申の乱」の際、大海人皇子も来た? 古代の行政施設再現 三重・四日市 [蚤の市★]
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国史跡に指定されている古代の役所跡「久留倍官衙(くるべかんが)遺跡」(三重県四日市市大矢知町)を紹介する「くるべ古代歴史公園」の整備がほぼ終了し、11月のオープンを予定している。当時の主要な建物を復元したり、建物の柱を立てたりして古代の行政施設を再現する。遺跡の調査を始めてから約20年。「壬申(じんしん)の乱」などの史実に結びつく可能性もあるロマンあふれる遺構がようやく一般公開され、歴史ファンらの注目を集めそうだ。【松本宣良】
久留倍遺跡は、国道1号北勢バイパス建設工事に伴う発掘調査で見つかった。飛鳥〜平安時代にかけて当時の朝明郡の役所「郡衙(ぐんが)」があった場所とみられ、中心施設の「政庁」跡から正殿と2棟の脇殿、正門に当たる「八脚門」の遺構が発見された。南北を軸とする通常の役所跡と異なり、東を向いている点でも注目された。他に租税の稲を収納した高床の倉庫群「正倉院」の遺構も確認された。
また、日本書紀では皇位継承権を巡る壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇)が朝明郡で戦勝祈願した後、郡衙に入ったと記され、続日本紀には聖武天皇が東国行幸(740年)で朝明郡に滞在したことが記されている。
遺構や文献から、同遺跡が古代の地方組織の一端を知るために貴重で、古代史を解明する上でも重要として2006年に国史跡に指定され、市教委が11年度から遺跡の保存整備事業に着手。これまで古代歴史公園(約2万1500平方メートル)内に八脚門を復元したほか、正殿をモデルにした休憩所、建物の位置を表示する柱などを整備してきた。遺跡のガイド施設「古代歴史館」は2年前、隣接地に開館している。
市教委社会教育・文化財課の葛山拓也学芸員は「地元住民や関係者らの協力でようやく公開の時期を迎えられる。歴史に興味のある人だけでなく、市内外の多くの人に古代の行政の姿を体感しながら、公園に親しんでもらえれば」と話している。
毎日新聞2020年8月21日 08時15分(最終更新 8月21日 08時15分)
https://mainichi.jp/articles/20200821/k00/00m/040/010000c
真の平和主義者のジョン ・ レノンとオノ ・ ヨーコは、来日したら靖国を必ず参拝してましたwwwwwwwwww
キムチの腐ったバカサヨチョンと死那畜、脱糞失禁発狂涙目憤死wwwwwwwwwwwwww
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140630/dms1406301509006-n2.htm
> 外交評論家の加瀬英明は
> 「 私のいとこにオノ ・ ヨーコがいる。
> 夫のジョン ・ レノンは生前、来日したときは必ず靖国神社に参拝していた。
> 外国人にも靖国神社の重要さは理解できる 」
> と明かした。
10 四日市と聞いたらもはやゆるキャラのことしか思い出せん 天智天皇と天武天皇は兄弟だってことだけども、本当はアレだってことなんでしょ?
(´・ω・`) >>9
【ベロ出しちょんま】のパクりキャラな
ただし四日市港のパワフルさは素晴らしい 大友皇子が百済系で大海皇子が新羅系なんだよね
つまり大友皇子の父親が朝鮮半島の百済へ帰ろうとして新羅に負けて
列島まで攻めこまれたのが壬申の乱だとも言える 大友皇子が勝ってたら歴史変わってたな
息子の葛野王が皇位を継いで今頃はその子孫が天皇家だったろう
どのみち葛野王は大海人皇子の長女の息子でもあるからその方が大海人の子孫が現代まで続いていた可能性あったのにな
壬申の乱は結局大海人にとって余計な事だったとも言える
皮肉なもんだ >>9
地元だけど大入道がゆるキャラ化してたの知らなかったわw
>>12
元ネタの大入道は江戸時代からいるキャラ、祭りの時しか見ないけど >>13
劣等民族学校で習った歴史はヨソでは通用しない ずいぶん前から発掘はしてたけど、これめっちゃ地味なんだよなぁ
立派な建物はあったみたいだし見晴らしもいいんだけど、高台にポツンとあるだけだから人を呼ぶのは難しいだろうな・・・ >>12
ベロ出しちょんまってあれな組織の創作物語なん 尾張あたりの豪族の力で勝ったんでしょ?
古事記にも尾張氏出てくるしね
尾張氏はいつのまにか歴史から消える 日本書紀の内容なんてな
このレベルだぞ
それを「日本の歴史」とかぬかすバカw
金正日は生後3週間で歩き、8週間で言葉を発したという。大学時代には3年間で1500冊の本を書き、
「音楽史上最も素晴らしい」6本のオペラを作曲した。その後はスポーツの分野で並外れた能力を発揮。
94年に初めてゴルフクラブを握った際には、北朝鮮唯一のゴルフコースで11回のホールインワンを記録し
、38アンダーという驚異的なスコアをたたき出した。 史書にある場所が発掘されるのはロマンがあるな
ただ官衙とか歴史好きな人以外にはサッパリだろうなぁ
魅力や意義を理解してもらうのは難しいな あれ遺跡やったんか。
個人が中途半端な庭園作ったんかと思ってた 笑 天智天皇の後、大海人皇子が天武天皇になったけど、天武天皇の次、持統天皇が即位。持統天皇は天智天皇の娘で天武天皇の妃。これ以降、称徳天皇までは父系天武天皇、母系天智天皇のみの天皇が即位。
称徳天皇以降は父系天武系統が絶えたので、父系天智天皇が即位。60歳で父系天智天皇の一代を挟んで父系天智天皇の桓武天皇。 というか史跡的には聖武天皇の行幸の方も重要かもな
聖武天皇が滞在するための施設が特別に作られているようだし どー頑張っても無理
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46
大給松平家菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>13
正しい歴史認識は以下の通り。
天智天皇は親百済派。百済系とかでは無い。
百済の王子 余豊章は大和朝廷の人質として奈良にいた。
滅亡した、百済再興と任那再建を目指して半島に介入。
天武天皇は半島不介入派。
白村江の戦い後、唐新羅連合が分裂し、唐が大和朝廷に唐大和連合で新羅を征伐する使節を派遣。
天皇天皇は賛成。大海人皇子は不介入。で対立する。 奈良から伊吹山のふもと不破・関ケ原に本陣を置いて、壬申の乱に勝利した大海人皇子。
伊吹山で戦いに敗れ、奈良に帰る途中、能褒野で亡くなった日本武尊。
同じルートを逆方向に進み、結果も正反対。
日本武尊の神話を載せた古事記・日本書紀の編纂を命じたのは大海人皇子、後の天武天皇。 というかこの時点までは兄弟相続が普通だったからな
むしろ天智天皇が慣例を破ってる形になってる
大海人皇子の行動は十分にあり得る話なわけで >>34
額田王はこの辺からめて大河ドラマ化してほしいなあ
半島と戦う白村江の戦いもあるし
大化の改新から大津京、天武測位までは歴史ロマンだよ 天智天皇と天武天皇は、どういう理由かお互いに叔父ー姪近親婚をし過ぎていて、本当に同腹の兄弟だったのかという事がどうも信じられない。
なんでこの辺だけやたらに近親婚にこだわったんだろうな?
蘇我氏のような外戚をもたない為? 兄弟で流れてる血はおんなじだかたいして問題ないのかも 仮面ライダーストロンガーで敵側がストロンガーは独りしかいないので2ヶ所同時に作戦を実行すればどちらか1ヶ所は成功するだろうと作戦を練った。
作戦の候補地を決定するにあたって敵幹部は宣言する
「1つは東京!もう1つは…」
(大阪か?京都か?)とオレは思ったが敵幹部は自信満々で
「四日市だ!」
オレはそれを聞いて(な、なぜ?四日市?)と思った。
これがオレの四日市の思い出です。 >>32
倭国は一貫して百済と親しく、百済と戦う新羅を敵としていたので、天智天皇以外も倭国全体がずっと親百済だっただろ。
>天皇天皇は賛成。大海人皇子は不介入。で対立する。
その辺は史実性が怪しい。
日本書紀を作った天武・持統の奈良時代、唐に気に入られたくて、「いまの朝廷につながる大天野皇子は唐と戦うのに反対したのです」という話を作った可能性が高い。 >>36
平安時代〜江戸時代くらいまでならちょいちょい大河ドラマの舞台になってるからいいけど奈良時代だと違和感が出てきそう
前に奈良時代のドラマ見たけどコレジャナイ感あった
でもそろそろ違う時代の大河ドラマも見てみたいけどね >>40
大海人皇子と天智との血縁関係について、そもそも記紀の記述を信用していいわけではないだろ。
日本書紀の編纂目的を考えれば、その辺はいちばん作り話が多く入った部分だと推測するのが当然。 少し前まで、なぜかこのクーデター=大化の改新のイメージだったんだよな >>47
奈良時代だと、今と違うことが多すぎ、時代考証が難しすぎて、NHKのルーティーンのドラマでは手に負えない。
昭和ならでたらめな時代考証でも批判されなかったけれど、いまではネットで詳しい素人から指摘されて恥をかく。
かといって、本気で奈良時代の習慣を再現しようとすると、一般視聴者は異様に感じてついてこれないと思う。 >>1
だいうみんちゅ皇子とかふざけてんのか?
そんな奴習った記憶もないし、いい加減なことを抜かすなよ! >>41
正史によれば同腹となっている。二人とも父は舒明天皇、母は皇極天皇。
俺は、正史を信用しにくい箇所だと思うけど。 >>46
筑紫王磐井が新羅派
新羅の王冠には新潟産出の翡翠がふんだんに使われてるから交易は盛んだぞ
というか新羅王は倭人じゃん >>41
>>52
腹違いの兄弟
舒明が百済留学時代に百済人の女に産ませたのが大海人皇子
その後日本に帰国して正妻との間に生まれたのが天智
だから皇位継承順的に年下の天智のほうが「長兄」で年上の大海人皇子のほうが「弟」という扱いになる
「大兄」というのは皇位継承順でつけられるからね >>49
いや、ほんとはそうだよ
乙巳の変は大化年代ではない
大化年代は690年頃と判明してる
645年の乱をなぜ大化改新と呼ぶようになってるのかは、記紀編者の歴史改竄が高いね へーこんな場所があるんだ
一応木曽三川の河口付近なのにこういう遺跡がみつかるとはね。。。 では大化改新が690年だとしたら、大化改新とは何か、というと
サンフランシスコ講和条約で日本が主権回復したみたいなもんだろ
670年の白村江の敗戦から戦後唐の占領時代を経て、唐の属国として主権回復したわけだ >>46
>百済と戦う新羅を敵としていた
それどころか初期新羅の独立性自体が怪しいんだけど
建国時代からして倭人が相当数入り込んでいるし
好太王の頃は新羅は高句麗の草刈場状態だったはずなのに倭は高句麗まで進入して直接戦闘も行っている
やや時代を下ると高句麗支配を脱したかのような記述が出てくるがその後も宗主国や百済高句麗から挟撃されていたりして
それらは本当に新羅としての事跡なのか? 国衙じゃなくて郡衙だから史跡としてはちょっと小規模だな
ただ要衝だから史書に出てくるのは売りになるかも知れない
つか施設が東向きなのはここだけという話だがその辺はどうなってるんだろうな >>55
そう考えた方が色々納得がいくが、腹違いの兄弟と分かる資料が何か出てきたのか? >>55補足すると
皇極天皇の名前「宝皇女」
この「タカラ」という言葉は完全に「安羅」「加羅」がもとだわな >>57
少し高台なところだからね、近くに東芝(キオクシア)の半導体工場もあるし 昔の伊勢湾はもっと陸地に迫っていてこの遺跡の目の前まで海があるようだな >>61
証拠はないが、状況的に
舒明天皇(田村皇子)はいろいろ謎
まず死んだときの居所が「百済宮」
これはどこかは記紀には書いてない
だから百済を終の棲家として百済で死んだ可能性がある
そうでなくても百済宮なんて名前の宮に住む時点で不自然
今で言うなら天皇引退した上皇が横浜中華街に居所を置くようなもの
とにかくかなりの百済派で
周りにも百済人が多かったであろうこ やはり忍者よりナイトの方が頼りにされていたキングベヒーもスとの戦いで
おれは集合時間に遅れてしまったんだがちょうどわきはじめたみたいでなんとか耐えているみたいだった
おれはジュノにいたので急いだところがアワレにも忍者がくずれそうになっているっぽいのがLS会話で叫んでいた
どうやら忍者がたよりないらしく「はやくきて〜はやくきて〜」と泣き叫んでいるLSメンバーのために俺はとんずらを使って普通ならまだ付かない時間できょうきょ参戦すると
「もうついたのか!」「はやい!」「きた!盾きた!」「メイン盾きた!」「これで勝つる!」と大歓迎状態だった忍者はアワレにも盾の役目を果たせず死んでいた近くですばやくフラッシュを使い盾をした
忍者から裏テルで「勝ったと思うなよ・・・」ときたがLSメンバーがどっちの見方だかは一瞬でわからないみたいだった
「もう勝負ついてるから」というと黙ったので戦士サポ忍の後ろに回り不意だまスフィストを打つと何回かしてたらキングベヒんもスは倒された
「ナイトのおかげだ」「助かった、終わったと思ったよ」と忍者を行き帰らせるのも忘れてメンバーがおれのまわりに集まってきた忘れられてる忍者がかわいそうだった
普通なら裏テルのことで無視する人がぜいいんだろうがおれは無視できなかったみんなとよrこびほめられたかったのでレイズを唱えてやったらそうとう自分の裏テルが恥ずかしかったのかHPに帰って行った >>45
ブラックで夕張や四国が狙われたこともあったなw
悪の組織は妙なところを狙う
まぁ工業地帯だし多少はね?
ぜんそくのニュースとかもあったから悪の組織の活動のイメージがしやすいとか? コロナ禍だし県外からは不要不急で来なくていい
なあに、史跡だから見通しのよい場所だと思ってる奴いるだろうが
既出のようにバイバス工事のついでで整備したところだからな
普通に歩いてもバイバスの鉄筋に頭ぶつけそうになるくらい劣悪なポジションにあるし
見に来てもガッカリするだけ 中大兄皇子「兄よりすぐれた弟などいねえ!」
大海人皇子「中大法受かりました」
中大兄皇子「中大法今年も落ちました」
藤原のカタマリ「あんたらとはやっとれんわ」
蘇我入鹿「東京で見る雪はこれが最期ねと」 >>61
皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇→天智天皇の継承過程で
皇極天皇=斉明天皇(同一人物で重祚)で天智天皇の母
孝徳天皇の妃は皇極天皇の娘。天智天皇と同母兄妹
孝徳天皇の妃と中大兄王子(天智天皇)は出来ていた。
故に中大兄王子(後の天智天皇)と対立した孝徳天皇は
遷都の際に置き去りにされる。(妃は中大兄王子が連れて行く)
この時代でも、同母での兄妹での婚姻はタブー。
したがって、ほとぼりが覚めるまで孝徳天皇置き去り後、
皇極天皇が再度即位して斉明天皇になり、その後天智天皇
までの中継ぎをした。 >>61
>>74の続き。
こういう経過を見ると、天智天皇の娘は殆ど天武天皇に嫁ぎ
逆に天武天皇の娘は殆ど天智天皇に嫁いでる。
同腹兄弟であれば、これも禁忌を犯す事になるので、
天智天皇と天武天皇は異母兄弟より遠縁と考えるのが妥当。 神倭王朝時代が奈良県って主張している時点でオカルトや 宝皇女の「タカラ」
軽皇子の「カル」
なんかは百済加羅系の名前だと思っていいと思う
日本は当時任那に直轄領を持ってたわけで
そこには当然駐在官がいなきゃいけない
駐在官は百済や新羅との外交も担うはず
じゃあその駐在官を誰がやってたの?という研究はまったく進んでないが
皇族の皇子がやってたと考えるのが普通だわな
豪族に完全に任せるのは領土喪失のリスクになる 白村江の戦いで敗れた後、中大兄皇子(天智天皇)は
畿内の飛鳥から畿外の近江大津宮にみやこを遷して即位したが
みやこの近江大津宮は短期間で終わった 皇極天皇が弟(孝徳天皇)に譲位して孝徳天皇、中大兄皇子らは
飛鳥板蓋宮から難波長柄豊崎宮にみやこを遷したが
中大兄皇子らは孝徳天皇を難波に残して飛鳥に帰り、
孝徳天皇崩御後、皇極が重祚した。 >>78
7世紀に任那の直轄領てってのはさすがにないだろ >>25
まんま史実だと思ってるのはお前みたいなアスペだけだよ^ ^ >>81
倭国が百済に寄っていったのは
任那の直轄領を失って、駐在官の駐在地が安羅から百済に変わったからだと思うんだよね 蘇我氏を天智と鎌足が倒して、その天智を天武と不比等が倒したあとに
記紀ができたわけで、蘇我氏系の聖徳太子がやたらと持ち上げられている
のもそのおかげ。 唐の玄武門の変も後の太宗李世民が同母兄と弟を殺したクーデターだし
大陸にそういうお手本がある以上、同母兄弟だから憎み合わないはずとも言えないのでは >>85
上宮王家の滅亡とか、本当に意味不明。
蘇我入鹿にとっても山背大兄の王子は従兄弟に当たるのに、何故滅ぼす必要があったのかね?
その後も大化改新が起きるまで、蘇我入鹿は処罰らしい処罰も受けなかったしな。 >>88
そうなんだ?!
じゃあウォーランドに壬申の乱の人形も置かなきゃ >>90
そんなことない。聖武天皇も天武系。
奈良時代は天武・持統系の王朝の時代。
光仁天皇(白壁王)・桓武天皇から皇統が天智系に戻った。 >>90
男系男子は聖武天皇。男系女子は称徳天皇の重祚で終わり。
称徳天皇の後、宇佐八幡神託事件を経て天智天皇系統へ移行。
もう少しで道鏡天皇が誕生しそうになった。 天武天皇系統の男系男子は文武と聖武の2人だけ。
後は女帝ばかり持統、元明、元正=称徳かな。
しかも、全員持統天皇を母系に持つ。
持統天皇自体が天智天皇天智天皇の娘だから、全員母系が
天智天皇系統。 >>91>>92
となると100年そこいらか
調べてみたら子作りに励まなかった聖武が駄目だな
まぁ穢麻呂と言われても皇統を護った和気清麻呂は良くやったよw 俺の高祖父の弟は高橋家に養子に入って家督相続した
その高橋家は某藩士で本姓高階氏
本姓が高階氏だから苗字は高橋氏らしい
高階氏は天武天皇の男系子孫 乙巳の変から壬申の乱あたりの歴史は怪しいよな
蘇我氏のせいにして焚書してるし そう考えると天武天皇は母親の身分がかなり低いみたい。
単純な天武系統では即位出来ていない。
あくまで、母方に天智・持統血統が必要。 >>40
自分は他人説支持派
血縁は全く無いと思ってるわ >>97
ガイジン系だと考えると納得できるよ
母がガイジン→バイリンガルに育つ→外交は有利(でも皇位継承は不利)
乱世には外交上手のほうが重宝されて即位できたんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています