9月1日、加茂田重政・元3代目山口組組長代行補佐が亡くなった。享年90。
山一抗争では一和会のナンバー2として山本広組長を支えた。
抗争終結後、率いていた加茂田組は解散に追い込まれたが、「何もかも兼ね備えた3代目山口組を代表するヤクザ」と、生前に親交があった元山口組系義竜会の竹垣悟氏が振り返る。

「加茂田親分の孫のY君から電話もらいましてね。(神戸の)公文病院で、9月1日の午前8時45分に亡くなったということでした」と話すのは、生前に親交があった竹垣悟氏。
竹垣氏は、竹中組(竹中正久のもとで組長秘書、竹中武のもとで若頭補佐)から山一抗争を経て5代目山口組中野会若頭補佐、6代目山口組系初代古川組舎弟頭補佐を最後に05年カタギとなった。

 加茂田親分の自伝は4年前に出版されているが、親分を版元に紹介したのは竹垣氏だという。
「少し前に親分は自宅のベッドから落ち、ベッド脇の狭いスペースに長い時間挟まれてしまい、そこから一気に弱ったと聞きました。
親分が特にかわいがってきた娘のKさんは悲嘆にくれていると話していました」
「年齢は90ですし、出征中とかその後の糖尿病の影響で両足首から下は切断していましたし、寿命が来たのかなという風に感じていますが、最後は吐血して苦しんだようです」

 竹垣氏と加茂田親分が出会ったのは1988年のこと。加茂田親分は抗争に破れて組を畳み、すでにカタギとなっていた。
「親分は3度の飯よりバクチが好きで、日本ではできへんから韓国のウォーカーヒルに入り浸っていた時期がありました。
その後に帰国して、知り合いを通じて、“会ってみないか?”と言われたわけです」

ランボルギーニのカウンタックを購入し、4代目組長候補にも

加茂田組ナンバー2と菅原文太は兄弟分だった

 竹垣氏は竹中武組長率いる竹中組の若頭補佐であり、カタギとなったとはいえ加茂田親分がいた一和会は不倶戴天の敵。2人が交わることはないはずだが、
「繋いでくれた人らが、“まぁ加茂田の親分はもうカタギやし”と言うていましたから、私もええかなと思ったんです。
韓国クラブが好きで歌がうまくて、当時行きつけの店にカラオケはなかったから、カセットテープを持ち込んで歌っていました。『あばれ政』という歌も出してますよ」

「一和会のナンバー2ではあったけど、4代目の巻き返しは早く敗色濃厚となった時点で一和会を出て一本(独鈷)で行くことに決めていたようです。そのことは4代目側とも話ができていたんですが……」

 そんな中、4代目の竹中正久組長が射殺されてしまう。
「加茂田の親分は暗殺に関与していなかったけれど、当然プランは狂いますわな」

 改めて加茂田親分の経歴を駆け足で辿っておくと、1950年代半ばに3代目山口組の若い衆となり、1960年の抗争事件で長期服役することに。千葉刑務所では野村秋介とも知遇を得たという。

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加茂田重政
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