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「私たちの北方領土」

現存する地図のうち、北方領土及び千島列島が表された最も古いものとして、
1644年(正保元年)、松前藩から幕府に献上された「正保御国絵図」があります。
この地図には、知床半島と納沙布岬の東方に「くるみせ」と呼ばれる大小39の島々が書かれていて、
そのうち34の島には「くなしり」、「えとろほ」、「うるふ」など、現在の島名とほぼ同じ名前がつけられています。
これは、ロシアのスパンベルグたちが最初に千島列島を調査し、地図をつくったという、
1739年より、約100年も前のことです。

松前藩では、本州の各藩とちがい、アイヌの人たちとの交易によって得る利益が藩財政の重要な部分をしめていました。
最初は、アイヌの人たちが交易品をもって松前にやってきたのですが、後には、交易地を海岸線に沿って設けるようになりました。
藩の交易船に、米、酒、たばこ、漆器しっき、鉄製品などを積み、
アイヌの人たちがとった鮭、動物の皮、鷲の羽根などと交換して持ち帰り、それを大商人に売り、利益を藩の収入にしていたわけです。
中心は根室に近い厚岸あっけしでしたが、千島列島の島々との交易がしだいに発展するにつれて、
1701年には、キリタップ(霧多布)に、やがては根室のノツカマップに場所(交易地)がおかれ、
1754年国後場所が開かれました。

16世紀にウラル山脈を越えてシベリアに進出したロシアは、
当時ヨーロッパ市場で高価に取引きされていた毛皮を求めて東進しました。
そして、1697年(元禄10年)、カムチャッカまでのびたロシアの勢力は、千島列島にまでおよびはじめました。
1711年(正徳元年)、コサックの反乱兵2名が、小さな革舟で、シュムシュ島とパラムシル島に渡り
抵抗するクリル人を征服したというのが、ロシア人が千島列島に渡った最初であるとされています。