【応仁の乱以来550年ぶり】北野天満宮・比叡山延暦寺 神仏一体で北野御霊会 疫病退散を祈る [ブギー★]
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学問の神様・菅原道真(菅公)を祭神とする京都市上京区の北野天満宮で4日、北野祭が営まれた。室町時代後期の応仁の乱で途絶えて以来約550年ぶりとなる神仏一体の祭礼・北野御霊会(ごりょうえ)を、歴史的な繋がりのある天台宗総本山比叡山延暦寺(滋賀県大津市)と共同で再興。僧侶と神職27人が、本殿で疫病退散と世の平安を祈願した。森川宏映天台座主が神前に進み、祭文を奏上。「仰ぎ願わくは天満大自在天神、聞法随喜の徳を耀かし、暗夜の群生に光を与えたまえ」と力強く読み上げた。
午前10時過ぎ、三光門の下で神職と僧侶が対面し、小雨の中、傘をさしながら並んで進列。全員が本殿に入った後、森川座主が入殿した。
神職による修祓や橘重(しげ)十九(とく)宮司の祝詞奏上に続き、森川座主が祭文を奏上。玉串を供え、柏手を打って拝礼した。
そして、北野御霊会再興の要となる神仏習合の伝統法儀・山門八講(法華八講)を開始。神前に設えた高座に登る講師と読師など延暦寺(山門)の僧侶が、誰もが仏になれることを説いた法華経全八巻の真髄を問答形式で明らかにしていった。
神前での仏事は、仏典講讃や読経の功徳で神の威光も倍増するという信仰に基づいて中世に発展。神仏習合の法会の場で生み出された教説は、神仏を共に祀る日本人独自の信仰心を育んでいく役割を果たした。神仏分離から150年を経た現代、今回のようにほぼ完全な形での再興は珍しい。天満宮と延暦寺では毎年続ける方向で調整中という。
北野天満宮では令和9年に迎える25年ごとの式年大祭・1125年半(はん)萬(まん)燈(とう)祭に向けて古儀復興を発願し、昨年には一條天皇の命による勅祭北野祭を復興。さらに本来の形である神仏一体の北野祭に回帰すべく、宗祖伝教大師最澄1200年大遠忌を来年に控えた比叡山延暦寺と共に、山門八講を行う北野御霊会の再興に取り組んでいた。だが今年、コロナが流行。退散祈願のために予定を前倒しし、今年再興した。
境内には修学旅行生の姿も。本殿前で手を合わせながら、550年ぶりの法会に結縁していた。
終了後の記者会見で橘宮司は、「人生最高の感動だった」と述懐。「千年続いてきた神仏習合の歴史の方が(分離後より)長い。仏教を信じ、神を尊(たっと)ぶ。これが日本人の心だと思う」と語った。
明治まで北野天満宮を管轄する別当寺だった縁から天満宮側の立場で出仕した曼殊院門跡(京都市左京区)の藤光賢門主は、「神仏習合の信仰と歴史を改めて強く感じた」と感想。水尾寂芳・延暦寺執行は、「いろいろな災害や災難がある。神仏の前での善根が早期終息に繋がるよう誠心誠意お勤めした」と感慨を述べた。
寺院だった北野天満宮
天神信仰発祥の聖地・北野天満宮(北野社)は、天暦元年(947)に創建。左遷先の九州・大宰府で失意のうちに没し、直後に怨霊となって京に甚大な災禍をもたらしたと信じられた菅公の御霊を祭っている。
菅公は生前、天台座主尊意を仏法の師とするなど比叡山と深い関係を有していた。菅公の怨霊鎮魂に際しては台密の修法がなされ、北野社の初代別当には菅原家出身の高僧で曼殊院門跡の是算が就任。以後、明治維新による神仏分離まで900年にわたり、北野社は延暦寺の末寺となり曼殊院が社務を統括した。
http://www.bukkyo-times.co.jp/_src/47740958/img20200910123727202817.jpg
http://www.bukkyo-times.co.jp/backnumber/backnumber.html#0930 菅公の怨霊鎮魂かよwガースーさいてーだなw菅直人が壮絶にすべる 日本では神仏は習合、混淆(こんこう)しているものであって
明治以降の日本は本当の日本ではない >>1
北の天満宮じゃなかったのか
南とかもあると思ってた >>4
天満宮ってどっちかというと神社じゃないの?
なんちゃら天神もお賽銭するような。 全土空襲、敗色濃厚で国家一丸となった太平洋戦争中でさえ
手は組まなかったという事ね
やはり京都にとっては第二次大戦より応仁の乱のほうが格上 三大天満宮とは、北野天満宮、太宰府天満宮、
しかし残り一つを挙げられる人は多くない これが歴史ってもんだな
なんでもパクる東京が逆立ちしても絶対に真似できないこと 神仏習合が本来の姿などとぬかす薄らバカが近頃散見されるが、明治以前のまがりなりにも戒律を守っていた頃の坊主と、明治以後の戒律破りまくって当然な顔をしている坊主は似て非なるまったくの別物。
ゆえに今更神仏習合に戻ることはありえない。
神仏習合を復活させたいなら破戒坊主を追放してからにしてね。 >>15
相変らず頭悪すぎだよ、ハゲw
まず、神道や仏教、寺社そのものが全くわかってないのに何恥さらしてんの?ww
それも短足ガニ股縄文ハゲが言う神道は明治以降の国家神道。
国家神道の形骸をありがたがっているから、神道離れが進んでしまうんだよ。うすらハゲwww これで令和の菅公・スガちゃんが新型コロナを鎮めてくれるね >>15
「曲がりなりにもー」
表向き、持戒してたっだけで、明治以降と大差はないよ。
下手をすると明治以降の方が全体的には真面目とも言える。
というかね、宗教の垣根なんてものこそ、明治以降の西洋化がもたらしたものであり、
日本古来の神道は仏教をも内包してきた。
インドのヒンドゥとは対照的にね。
廃物以前は、同じ境内に神仏が共に奉られ、或いは宗派すら曖昧な寺社も有ったが、
これを民衆が叩き壊したわけだ。
仏家ならば演技は踏まえねばならんよ。
更には大東亜時の反省(笑)から、戦後の日本仏教は現状に至る。
本来の仏教というなら、国家権力が介入しない分、現在の方が近いと言えると思うよ。
(^。^)個人的見解だが。(笑) 応仁の乱の頃はいろいろ大変だったわ
安倍首相のおかげで世の中が落ち着いてよかった >>3
そう思いがちだが、それはそもそも530年に外の国から仏教が入ってきて瞬く間に日本の政治と日本中の神社に侵食した結果 >>11
残り1つの現在の通説
関東→湯島天満宮
関西→大阪天満宮
中四国九州→防府天満宮 >>19
>(^。^)個人的見解だが。(笑)
必死でwikiみてきたのか?縄文ハゲチャビンwww >>11
滝宮天満宮って違うの?
あそこ菅原道真居たでしょ 京都の人達にとって先の戦争は応仁の乱を指すと言われてたから合点いく
調べると応仁の乱以降は幕末と太平洋戦争は小規模な災害受けただけで街ごと廃墟したのは応仁の乱が最後 天神さまは夜遅くなって眠たくなった時にホテルも無いや閉まってる
わりとどこでもあるし床の下に入り込んでまあ勝手に泊まり込んだともいうけど
わりと文句も言われず恩義があったからなあ
他の系統はわりと小うるさいとこが多いからな
叡山系もわりと掃除だけして帰れよって面倒なことを言われることなかったしな
上に上がるでもなく床の下だからどうかとは思うけどまあ天井があるのはありがたかったな
確か記憶では今回のは十四年くらい続いて元号が二回変わってひとまず一段落じゃないかな >>37
変わった頃ね 元号だけ変えても全く意味無いから 「人生最高の感動だった」
いや今感動したらだめでしょう
するなら平癒してからにしないと キリスト教の教会でイスラム教の礼拝をするようなものか? 北野天満宮には長五朗餅というのがあるんどすぇ。
おいしおすぇ。 京都の人にとって「先の戦争」って言ったら太平洋戦争でも戊辰戦争でもなく応仁の乱てほんと? >>48
検索してみたんどすけども、大宰府はんのは粒あんの焼き餅どすやんかいさ。
長五朗餅とは全然違いますんどすぇ〜。 >>49
こちらも長五郎餅を検索してみた
なんか上品な和菓子という感じでうまそうだね
梅ヶ枝餅はもう少し素朴な感じか >>50
大宰府はんに行く事あれば是非試させてもらいますんどすぇ。おおきにどすぇ。 菅原道真の遺品がたくさん残っているのは道明寺天満宮(大阪)。
一番古い天満宮は防府(山口)。 550年ぶり?その間日本の危機に対して知らんぷりしてたってこと?
大飢饉や太平洋戦争みたいな時でも?
コロナでの減収がそんなに酷かったのか? >>46
京都出身者だが、普通に太平洋戦争ですよ。
まぁ応仁の乱後、京都が名実ともに日本一の首都の座から転げ落ちて
江戸(東京)大阪体制になってしまって現在に至るのは事実だが 1467年 応仁の乱
ひとの よ む なしい 応仁の乱
(1) (4) (6) (7)
えっ?本当に虚しいの? 神仏に祈っても退散するわけないんだから無意味だな。 >>15
神仏習合でないと善悪も死生観もない宗教になっちゃうんだよ
神道=自然崇拝(アミニズム)だけじゃアフリカの土人国の宗教と同じ
アミニズムだけで先進国になった国なんて皆無だからw
日本も先進国になったバブル期までは戦前教育世代が現役だったから
仏教儒教がかなり強かった
今みたいなマスコミによる神道のみのゴリ押しが始まったのは90年代
90年代に中国政府が仏教儒教復活させたことを受けたアメリカ様の方針やろw
どうせアンタみたいな人はアメリカから金もらってるビジネス右翼の
言うことばっか信じて仏教も儒教もロクに知らないんだろww
自国の文化なのに説明しろって言われたら5分もしゃべれないレベル ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています