ミスコンは、関東では東大、慶應、立教、学習院、成蹊、明治学院、東洋、駒沢など、関西では同志社、立命館、関西学院、関西大学など、多くの大学でいまでも催されている。ジェンダー教育が盛んなお茶の水女子、日本女子、東京女子大学でも開かれていたりする。

 つまり今でも、十分にメジャーな大学イベントなのだが、一方で昔のフェミニズム運動とはちょっと違った形での批判も、このところ強まっている。その流れについて、教育ジャーナリストの小林哲夫氏は、近著『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー刊)でこう説明している。

〈大学のミスコンに対しては、1970年代から90年代まで「外見で判断するのは女性差別」という批判が強くあった。

 2000年代に入ってから、大学は多様性を尊重するという考え方が広がっている。女性だけでなく、性的少数者、年齢、国籍、人種、民族などによる違いで差別してはいけない、すべて尊重すべきである、という考え方だ。いま、多くの大学で教育理念や目標としてダイバーシティ(多様化)を掲げている。また、差別されることなく人権を尊重する、という姿勢を明確に示している。

 こうした観点から、ミスコン批判が展開されるようになった。〉

 多様性の尊重。その観点からの批判で、最初にミスコン開催を中止にしたのは、2011年の国際基督教大だったとのこと。〈学生、常勤・非常勤の教員や職員、卒業生、近所の住民、出入り業者など、様々な立場でICUに関わり、関心をもって〉いる有志の人々が「ICUのミスコン企画に反対する会」を立ち上げた。

それから8年後の2019年には、法政大学が公式にミスコンを禁止している。学生センターが法大生に伝える形で「ミス/ミスターコンテスト」について、という文書を公開したのだが、大学当局がここまで明確に反ミスコンの態度を表明したのは、極めて異例だ。その語調の強さも感じ取っていただきたいので、以下に引用する。

〈本学では、2016年6月に「ダイバーシティ宣言」を行いましたが、ダイバーシティの基調をなすのは「多様な人格への敬意」にほかなりません。「ミス/ミスターコンテスト」のように主観に基づいて人を順位付けする行為は、「多様な人格への敬意」と相反するものであり、容認できるものではありません。

 また本学では、自主法政祭実行委員会(市ヶ谷地区)が大学祭に際して掲げてきた「基調・理念と諸問題」という文書の中で、「ミスコン」に対し以下のような見解を長年にわたって示してきました。

「ミスコン」とは人格を切り離したところで、都合よく規定された「女性像」に基づき、女性の評価を行うものである。

 これは極めて先見性に富む見解であり、本学学生が主体的にこれを提示し、「ミスコン」の開催を認めない姿勢を貫いてきたことは本学の誇るべき伝統と言えるのではないでしょうか。

 上記に鑑み、いかなる主催団体においても「ミス/ミスターコンテスト」等のイベントについては、本学施設を利用しての開催は一切容認されないものであることをご承知おきください。〉

 学生の活動を大学当局が制限すること自体の是非は横においておくとして、有名大学がここまではっきりと反対したことの意味は大きいだろう。今年の4月には、やはり多様性の観点から上智大学でミスコンの廃止が決定している。法政の影響がありそうだ。今後もこれらに続く大学は出てくるだろう。そして、あれよあれよと、ミスコンは古臭い過去の遺物になっていき……。

 だがしかし、冒頭のツイートである。ジェンダーやダイバーシティなど、思想的には大きな変化が始まっており、その変化は好ましいものであると私も思う。

 けれども、〈賢い女の子は好かれないと思いこんで、中高では自分の成績をわりと隠してきた〉一人の女子学生の存在は忘れたくない。なぜなら、繰り返すが、これは彼女個人の問題ではなく、今でも少なくない女子学生たちがその前で萎縮してしまっている高い壁だからだ。

 もしミスコンに、そんな彼女たちを固定観念から解放させる力があるのなら、反ミスコンの流れにも一考の余地があるかもしれない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f71de93ec20b83fc40ea0fd55e171b0adb6b158b
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200913-00000015-pseven-000-1-view.jpg
https://www.news-postseven.com/archives/20200913_1595069.html?IMAGE&;PAGE=2