【大分】邪馬台国には日田説、大分市説、大分県南部説も ★4 [樽悶★]
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水行十日、陸行一月―。「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのか。
古代中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の解読には古くから多くの歴史ファンが頭をひねってきた。
大きく九州説、畿内説に分かれるが、その他国内各地でも“誘致合戦”が・・・
(続きはソース)
大分合同新聞 2020/09/10 15:30.
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2020/09/10/161522486
★1:2020/09/10(木) 16:32:56.59
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1599891021/ むかしは阿蘇山系の筑後川の氾濫大変だったろうな
あの水量をどうにかしようと無理ゲーすぎる
だから日田はありえん 邪馬台国は南九州の熊襲程度に圧迫されて魏に助けを求める雑魚国家。
そんな雑魚国家の場所は北部九州にローカルに決まってる、北部九州限定のドジンシャーマン国家。 『隋書』新羅伝
其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。傳祚至金真平、開皇十四年、遣使貢方物。
高祖拜真平為上開府、樂浪郡公、新羅王。其先附庸於百濟、後因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、
相率歸之、遂致強盛、因襲百濟附庸於迦羅國。
その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。
高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。
その先祖は百済に従属し、後に百済が高句麗を征したが、高句麗人は戎役に堪えられず、
相次いで帰国し、遂に強勢となり、百済を襲い迦羅国を従属国とする。
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-04-1siragi.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%A5%9A%E7%8E%8B 魏志韓伝
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里
韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし南は倭と接す。およそ四千里四方。
魏志倭人伝
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し韓国を歴て乍南乍東、その北岸狗邪韓国に到る。七千余里。 邪馬台国は北九州の海賊
倭寇の先祖みたいなもの
中国の史書に書かれている姿は海賊そのものだから 魏志倭人伝をそのまま読めば邪馬台国は沖縄台湾になる
記述から伊都国や奴国の近くにはないというか
離れてないとおかしい >>10
中国朝鮮の使者は北九州までしか来てないから
北九州から先の記述はフィクション 中国の人が魏志倭人伝は中国人でも古代の文法等熟知してないと
読めないほど難解だと言ってる、日本の学者が読めなくてもおかしくないと >>1
たった今詳しい人に聞いたんだけど古代日本は大韓文明の劣化コピーなんだってね >>10
九州に到達してから残り二千里なのだから九州北部しか範囲にならない
唐突に挿入される日数については意味が繋がらない
どこからどこまでの日数なのかなぜソコだけ日数なのか 九州にあって火山の爆発で
跡形もなく消えたんじゃね? >>9
中国は卑弥呼を卑しいと呼んだり邪馬台にも邪という文字を使う
東南アジアを南蛮とよび野蛮人よばわりする上から目線なんだよ 魏志倭人伝で使われてる距離単位「里」をどう扱うかが鍵
魏志倭人伝以外の史書で「短里」が使用されてるなら、魏志倭人伝の「里」を「短里」と見做しても間違いとは言えない >>16
日数の部分は伝聞
倭人が首都を隠す、あるいは、国を大きく思わせるために適当なことを伝えた 邪馬台国は北九州に決まっとるこの件について餃子のたしろで話さんといかん。 >>5
中国は嘘つきやからな。その文書もきっとウソっぱちやで しかし天皇がいたのに倭国の女王とか
不敬にも程があるな 12000=7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100
伊都国、奴国までで合計すると12000里で女王国までの行程の総距離に達し
行程の距離での説明は終了している
であるから水行二十日、水行十日、陸行一日(月)は帯方郡から女王国まで12000里行くのに掛かる時間を説明したもの
伊都国、奴国が女王国で邪馬台国の首都圏である。 アホかな?奈良だって
大分とか箔もつかないし奈良が有力だから >>22
日数の部分は張政の倭へ赴いた時の報告書からの情報で
里数は魏が公孫氏を滅ぼした時に入手した倭に付いての資料から得た情報。 >>26
当時は天皇なんて存在しないだろ
直接の先祖かはわからんけど邪馬台国からの流れの中に大和朝廷はあると考えられ 近畿は倭国な
倭が嫌だからと大和を攻めて襲名
大和否定地は日高見国(岩手)が有力 >>37
だから九州に卑弥呼なんてのが居て
中国から日本の王と認定されていたら困るんだよな
記紀が邪馬台国を無視したり無理やり取り込んだり
近畿説というトンデモが公式になってる理由 >>17
邪馬台国は「ヤマトコク」読みで問題無い
大和を「ヤマト」と読むのはだいぶ時代が下ってからの話で
山の入り口を表現した「山門」が本来の当て字 今、ビッグコミックオリジナルに卑弥呼をモデルにした漫画が連載されていて
まだ邪馬台国が成立する前なんだけど、今卑弥呼が拠点にしてるのはアバウトな地図で
宮崎から大分あたりなんだよな 魏志倭人伝を元に九州説を言ってる人は頭がおかしいんだよな
そもそも魏志倭人伝を書かれてるとおりにとらえると
邪馬台国は沖縄台湾で九州北部になるわけがない
>>16
>郡より女王国に至る。万二千余里。
帯方郡から女王国に至る距離が1万2千里
>九州に到達してから残り二千里なのだから
その主張は現代の測量技術での距離を当てはめてるよね
地上なら距離を測れるけど
海を渡ってて誤差はないのはおかしいからね
>次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
それに邪馬台国までの距離とはどこにも書いてなくて
1万2千里は女王国までの距離であって
帯方郡から奴国までの距離と考えられるし
この解釈だと水行20日+水行10日陸行一月とも矛盾がない
逆に1万2千里が邪馬台国までの距離であると主張するなら
水行20日+水行10日陸行一月が矛盾が生じる
>>29 それは考えにくい
複数の捉え方ができるような書き方を陳儒がするとは思えない
それは三国志(歴史書)を読めばわかる >>26
ヒミコが神武あるいはその妃でイヨが開化まではある >>37
それは神話だろ
ギリシャ神話や北欧神話と同じだよw 大和をヤマトと読むなら、大分もヤマケで良いんじゃない。→邪馬台国 >>43
>そもそも魏志倭人伝を書かれてるとおりにとらえると
邪馬台国は沖縄台湾で九州北部になるわけがない
これは自分で読んでそう解釈したってことでおk?
それともそう書いてあるサイトがあるからそう思うってこと? >>45
その神話を正当化するために歴史を歪曲してるから邪馬台国論争が起きる >>45
ヤマトタケルを祭った二千年前に建立された神社が各地にある不思議w そもそも漢字は外来語だからな
邪馬台も大和も当て字 >>50
年代測定てきに胡散臭いけども縄文土器が神話に沿ってる造型してるから
それから逆算すると2000年前建立とか遅すぎるレベル えっ大分説あるの?
何もない地元に観光資源ができるw >>15
大韓文明ってなんだ
韓国って出来て100年経ってないだろ 所謂邪馬台国ってね、概念上の邪馬台国と、地理上の邪馬台国がずれてるから論争が起きるんだよ。
初代神武朝と、山幸彦系の物部氏ってのは、父型の先祖が徐福=スサノオなんだよね。
だから物部氏がまとめた先代旧事本紀には、天のホアカリ饒速日って一見両人に書かれてる。(ホアカリと、饒速日は日本での和名)
初代神武朝は、腹違いの弟の物部氏に倒されるんだけど、物部東征(記紀では万世一系の原則により神武が行った東征に偽装された)の際に、物部氏はツクヨミを奉じる豊国と連合を組んだんだよ。それが都万国
それがヤマト乗っ取りを企てるにあたって、大陸に大義名分を貰って箔をつけようとした。
その時に彼らは「私たちは大和の国のモノです」と名乗った。
大陸から八幡の錦を貰った都万国はヤマト乗っ取りに乗り出す。
途中、豊玉姫=二代目卑弥呼(病死したと書かれたほうの卑弥呼)は、宮島で病死し、のちに厳島神社となる。
トヨは、豊玉姫の娘=豊来入姫(最終的には義兄弟の物部氏に切り捨てられ椿大社で暗殺され、天のウズメにされる)
測量術の発達していた魏国の朝政を足止めまでして都の位置を偽装し、大和入りを果たそうとしたというのが邪馬台国の内情。 >>57
文明らしいものが出来始めてからまだ20年くらいだな 壱岐、対馬をぐるっと回る距離を万二千里に含めて良いんだろうかね?古田説だっけ?
迂回するにしてもぐるっと回りきらずに次の目的地が直線で目指せるところまで来たらまっすぐ進むんじゃないか?
というかそんな細かいとこまで書かない気がするな こんなんどうでもいいやん
こんなしょうもない事に一体どれだけの時間とお金使ってきたん? 分裂状態になってた葛城国(初代神武朝と吉備国)は、政権の共同運営者である出雲事代主系の磯城トビ家に見限られ、物部氏を招き入れられる(八咫烏)
これが九州式土器が元出雲屋敷と呼ばれた三輪山西側の地、纏向遺跡で出土した理由。
縄文時代より続く、出雲王家(向家)、九州物部家(秋上氏)、朝鮮人であるアメノヒボコにに嫁をやった神床家の伝承は一致している。
我々が認識する邪馬台国は、九州であり、地理的な邪馬台国は、奈良の大和であり、大陸の蔑称名にすぎない。
九州で死んだ物部イニエをヤマトに居たことにして崇神天皇を当てはめ、息子であり、トヨの腹違いの兄弟である物部イクメが次の天皇だったことにされた。(イクメ天皇の贈り名がミマキイリヒコになったのはその故事による)
持統天皇の時に万世一系が捏造されたときには、政権経験者の妥協があってこそ成り立ったと言える。
物部の権威は徹底的に隠された。大陸系の徐福の子孫だとなったら舐められるから。
奇しくも、朝鮮半島の奴隷支配を免れ、独立性を保ち、額を9回こすりつけるれ意をしないで済国になった一番の原因はヤマト乗っ取りの物部氏の方針だった。 神武は邪馬台国(伊都国、奴国の境の日向峠)から東征したんだから
卑弥呼の時代には未だ存在しない。 今でも物部氏系の神社は海幸彦(弥彦神社)も山幸彦(果ては乗鞍神社)まで菊の御紋なのはそういう理由
出雲も物部氏も蘇我氏も政権経験者。
それぞれがまとまって、日本の歴史は一本筋が通ってますとまとめたのが古事記。
昔は万葉集の極意と同じで歴史を復元できる伝承者が居たと思われるが、きっと途絶えたのだろうね。 >>43
おそらく海を渡ると自動的に千里
郡から狗邪韓国までで七千余里
海を三回渡ると自動的に三千里
残り二千里のうち末路国から不弥国までが七百里
女王国まで残り千三百里
これくらいの距離感 魏志倭人伝の記述は放射説みたいに歪ませて読む必要はない
記述どおり捉えればいい 陳寿なめんなよ
蜀出身なのに編纂を命じられた才能は間違いないし
三国志完成後も陳寿はいくつか仕事をしてるから
三国志におかしなところはないと当時の中国の人は思ったと考えていい
ただ現代人は邪馬台国が九州沖縄にあることになってるのが
おかしいことがわかるんだけどね
>>48 魏志倭人伝を全部読んでそう思ったよ イヨだかトヨは豊玉姫(乙姫)を倒?して名前を貰うゆえに同じ名前的な扱い
ヤマトタケルとかの神話のエピソードに沿ってる >>46
無理すんなよ?
無理しなくてもお前らは充分立派に頑張ってるよ
日本のへそとしてなb >>43
まあ九州説は魏志倭人伝ガン無視だからね
行程記事の一部である南のみしか一致しない >>64
卑弥呼はね、単なる役職名で姫巫女の大陸の蔑称なんだよね。
武内宿祢の寿命が長かったのは、
武内宿祢の系統の子孫が何代かに渡って要職についてたから。
日向神話の元になった武内ソツ彦王も、武内宿祢時代の一人。
弟が居て世話をしているってのの卑弥呼は出雲系で太陽の女神を奉じていた(後の伊勢神宮の内宮)
病死したと書かれた二代目卑弥呼の時は宇佐八幡との関係もあり、ツクヨミ(後の下宮)を奉じていた。
卑弥呼の出展が時期的ににずれているのはそういった事情。
伊勢神宮が内宮と下宮で千木が縦と横に削ぎが違ってるのはそういう事情 >その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。
その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にある。
>有無する所は?耳、朱崖と同じ。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(海南島)と同じである。
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
>夏后少康の子は会稽に封ぜられ、
>断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
>今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、
>文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
>後、稍(しだい)に以って飾と為る。
夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、
髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、
入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであった
後にはしだいに飾りとなった。
>倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。
>或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、
離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
魏志倭人伝で邪馬台国が沖縄台湾あたりの南方にあるように
勘違いさせようとした記述は複数ある
ただそのあたりは海で
沖縄台湾あたりに邪馬台国がないことは現代人ならわかるよね >>65
天照大神は持統天皇がモデルと言う説があるもんな >>61
帯方郡の南の海岸から狗邪韓国の南の海岸までが7000里
狗邪韓国の南の海岸から対馬の北岸までが1000里
対馬の北岸から対馬の南岸までが800里
対馬の南岸から壱岐の北岸までが1000里
壱岐の北岸から壱岐の南岸までが600里
壱岐の南岸から末盧国の南岸でが1000里
末盧国の北岸から伊都国と国境までが500里
こんな書き方をしてる。
、 >>61
帯方郡の南の海岸から狗邪韓国の南の海岸までが7000里
狗邪韓国の南の海岸から対馬の北岸までが1000里
対馬の北岸から対馬の南岸までが800里
対馬の南岸から壱岐の北岸までが1000里
壱岐の北岸から壱岐の南岸までが600里
壱岐の南岸から末盧国の北岸でが1000里
末盧国の北岸から伊都国と国境までが500里
こんな書き方をしてる。 >>75
天照は元々物部氏の男神で、古事記によって三輪山の太陽の女神と習合された。
これも万世一系の事情によるもの。 >>35
どうだろ
表に出てないだけで何らかの根拠は見つかってる気がする
出さないのは当然断絶があったからw >>63
奈良には弥生時代がないじゃんw
関西で一番ない癖にw
九州説に鞍替えした考古学者「奈良は30年調べたが何も出なかった」
wwwww >>81
そんなんいうたらそんなの神保町あたりにしかないんでないの? >>43
距離と時間を連続して読む馬鹿がいるとは陳寿は考えもしなかったろうなw
同じ行程を距離と時間で丁寧に説明してるだけだよ。 だからね、朝政が騙された経緯が現在の伝承なんだよね >>84
海洋民族でもなくてインドと交流するのに陸回りしてた国の公開技術ってなんやねん >>74
夏后少康の子が封ぜられた会稽は越国なので東に台湾なんかないよ
せいぜい種子島くらいか
魏略には「自ら太白の後という」という記述があり魏志では削られてる
魏略「呉の太白の末裔って自称してて越みたいに刺青してる」
魏志「越みたいに刺青してて、まさに会計(越)の東にある」
倭人は呉越付近にいた人たちの末裔ではないか?と思わせる部分が
太白の後(呉)であり夏后少康之子(越)のくだりで
まさにその越の会計の東にあるのは九州(鹿児島とか種子島あたり) 発掘で見つかってる考古物で見たら
邪馬台国が朝貢したと魏志倭人伝に書いてる魏の年号の入った鏡とか畿内で見つかってるから
数十年前から畿内説が定説になってるよ こんなとっくに結論が出ている話をいつまで続けるのか
隋書と合せて読めば筑紫で決まりだよ
ただそれだと日本書紀と全く一致しないわけで
両論を併記するのが妥当なのに
天皇の権威に傷が付くから大人はだんまりを決め込んでいる >>50
まあキリストの墓が東北地方にあるくらいだからね
それ不思議とも何とも思わないよw >>81
持統天皇の時に何故「良きこと何某」とスローガンがあったかというと、全国で集めた風土記を総合してから
国の正史である「史」を作ろうとしたんだけど、結局大陸の影響を排除できないことが分かってから
風土記は破棄されたんだよね。
国の歴史は一本筋が通ってますと妥協の産物で作られたのが万世一系
だから現在では学術的に万世一系説は否定され、欽明天皇からの女系でつながるところまでしか確実には遡れないという結論になったんだよ
だから、記紀にかかわった出雲国造である千家の作った出雲風土記以外がすべて「残欠」になってしまったんだよ >>67
素晴らしい では沖縄になるって類推はどの部分から
導き出したわけ? >>90
マジでか。出雲王家の本を読まずにそこまでの結論に達するとは慧眼に敬意を表する 記紀との整合性を取るなら南九州にあった狗奴国こそヤマト王権の前身で北九州にあった邪馬台国を滅ぼしその後東に向かって出雲を併合奈良に至ると考える >>72
九州説が魏志倭人伝の記述とどれほど不一致になるか昨日書いたが、もう一度列挙してやるよ
魏志倭人伝と合わない記述の一覧
・邪馬台国が30ヶ国連合の盟主の国
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸
・水行二十日、水行十日陸行一月
・卑弥呼の宮殿に1000人の従者が仕える
・卑弥呼の墓が径百余歩
・一大率が刺史のごとく
・魏と外交をやっていた
・国名が中国語で邪馬台国の発音に近い
・帯方郡から12,000里
・会稽東冶の東の位置
・殉葬100人
九州説ってのは、魏志倭人伝と矛盾だらけの説だと自覚しな
下3つは畿内説でも不一致になるが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています