【虐待】11歳の娘の髪をバリカンで切り、顔面に蹴りを入れた34歳塗装業の父親を逮捕。神戸市 [記憶たどり。★]
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https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202009/0013699677.shtml
11歳の長女を虐待したとして、兵庫県警垂水署は16日、暴行と傷害の疑いで
神戸市垂水区の塗装業の男(34)を逮捕した。
逮捕容疑は今年8月4日午後10時50分ごろから同5日午前1時ごろ、
同区内の自宅で、長女の髪の毛をバリカンで切ったほか、8月上旬ごろ、
長女の顔を蹴るなどの暴行を加え、全治約1カ月のけがを負わせた疑い。 >>564
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
終戦により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、
北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、
暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生は
ソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、
『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。
それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、
また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、
ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。 >>566
『戦後引揚げの記録 新版』若槻泰雄著(1995年10月発行)
荒れ狂う婦女暴行
ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一言に尽きる。
それが12、3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、
そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことは全く頓着しなかった。
樺太の場合同様、女性たちは丸坊主になり顔に墨をぬり
男装して難を逃れようとしたが、彼らは1人1人胸をさわって女であることを確かめると引き立てていった。
南満へ疎開した人達が、終戦後また新京の自分の家に帰る途中、
公主嶺の駅で進駐してきたソ連軍の列車とばったり出くわしたとき
起こった事件は「誰知らぬ者もない事実だ」という。
それは、あわてて発車しようとする日本人の乗っている列車をソ連兵が止め、
女は1人残らずプラットフォームに降ろされ、
「白日の下、夫や子供や公衆の真ん前で集団暴行を受けた」のである。
もとより日本女性のすべてが唯々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけではない。
陵辱に耐えかねて、死をもって抗議する若い婦人、
暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。
例えば敦化の日満パルプ株式会社の社宅では、
ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し、
夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際、23人の女性は、一斉に青酸カリによって自殺している。 >>567
「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦」
8月15日(終戦日)を境にして、
それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった…
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて
暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、
何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、
朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。
その内容は、
「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。
2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」
というような内容だった。
態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、
まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。
まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。
私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。 >>568
そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、
家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、
「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、
貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。
命を削り取られるような不安におののく毎日であった。
男の子のような姿になっていても、
顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。
保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。
ソ連軍の将校クラブができて、
そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、
ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。 >>569
厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの
伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった…
薬もないし医者もいないので、
そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。
女性に対する暴行事件も後を絶えず、
暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…
死者が出ても葬式をだせるはずもない… 『強姦された日本人女性のほとんど総ては、その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。』
「満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった」
女性たちは丸坊主になり顔に墨を塗り男装して難を逃れようとしたが
ソ連兵は一人ひとり胸を触って女である事を確かめると引き摺っていった
侵略したソ連軍は日本人の乗っている列車を止め、女は一人残らずプラットフォームに降ろされ、
「白日の下、夫や子どもや公衆のまん前で集団暴行を受けた」のである
陵辱に耐えかねて死をもって抗議する若い婦人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた
「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに横暴な行為を露骨に現した。
彼らは敗日本人に強奪と暴行を振るった」
満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。
彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、得た金を着服した。
夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を捜し回った。
恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。
満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が街角に現れ、
通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。 「終戦当時、強姦された日本人を保護」
1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが
開始されてから、博多港に上陸した日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上った
ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、妊娠させられた多くの日本人女性が存在した
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も多かった
妊娠した女性の中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた
二日市保養所は、戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された
引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った
一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き
汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた
引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば
それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは増すばかりだった
凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、女性たちは概して無言のままだったという
迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった
まず、「お風呂に入りましょうか」と入浴をすすめ、衣服の着替えを用意し、2〜3日休養してもらう手順だった
旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた
手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた
精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えた >>572
ソ連や中朝蛮族による【日本人強姦被害の凄惨な事件】を利用するオランダ(真実史観
↓
日本軍公娼の告訴人では無い自称日本軍公娼慰安婦騙り屋ジャン・ラフ・オハーン
忘れられたもの
1942年、私が19歳の時、日本軍はジャワを侵略しました。
何千もの女性や子供たちと一緒に、私は3年半日本の捕虜収容所に抑留されました
日本の捕虜収容所のオランダ人女性の多くの話は、恐怖、残虐、飢餓、苦しみについて話されています。
しかし、一つの、最も恥ずべき逃れられない最悪の人権侵害の話は、しませんでした。
※人権を冠して仕立て直し、新たな難癖材料にした。
1944年に高官の、日本の役員がキャンプに到着したとき、私は2年間キャンプにいました。
※3年半−2年間=1年半と聴衆は錯覚する。真実は「2ヶ月未満」(書籍や他所では3ヶ月と証言)。
以下の証言は証拠提示無きただの証言。しかも証言者はこの女性のみの一人。
関係者既に死亡の現在、「死人に口無し」の一方的な証言
17歳以上のすべての独身の女の子は、収容所で一列に並ばなければなりませんでした。
私たちのあごを持ち上げて、私たちの足や、我々の体つきを見ました。
私たちは、軍のトラックに投げ込まれました。我々はおびえて、バッグに、そして、お互いにしがみついていました。
彼らは私達を見て笑い、そして彼らは、彼らが好きなように、行うことができると言いました。
その後彼らは、一人ずつ私たちを引き離し、無理やり引きずり始めました。
私に、寝室からの叫びが聞こえてきました。私はテーブルの下に隠れましたが、すぐに発見されました。
最終的に部屋を出たとき、私の全身が震えていました。
私は衣類の残されたものを拾い集め、バスルームに逃げ込んた私は、他の女の子の一部をそこに発見しました。
私達は、皆泣いて、バスルームでショックが更に増しました。
私はすべての汚れを洗い流すことを試み、私の体から恥を洗い流しました。
しかし、夜はまだ終わっておらず 、そこには待っている多くの日本人がいました、そしてこれは、一晩中続きました。
それは、毎週毎月の、始まりに過ぎなかったのです。
私はすべてをためしました。私は私のすべての髪さえカットしたのです、それで、私は全くのはげになりました。
私は、私が私自身を醜く見えさせれば、誰もが私を欲しがらないだろうと思いました。
しかし、それは私を、好奇心の対象に変えました。それは、逆効果でした。
私達は、まだ悪夢を見ます。戦争の後、私は、体を元に戻すために、大手術を必要としました。 >>573
『敦化事件』wiki
1945年8月27日に満洲国でソ連軍によって連日に渡り
集団強姦され続けていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員や家族が集団自殺
日本人職員とその家族260人が暮らしていた
また2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた
【1945年8月9日未明に突如として】ソビエト連邦が満洲国に侵攻し
敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが
8月15日終戦後、市内では【満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行】が行われるようになった
ソ連軍進駐
8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した
ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった
ソ連兵は、クラブ従業員の【女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った】
数時間後に【拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきた】が
もう一人の【若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明】となった
8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると
10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた
【170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁】されることとなった >>575
集団自殺
8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら
【女性たちが監禁されている各部屋に乱入】すると、
【女性たちの顎をつかみ顔を確認】しながら【気に入った女性たちを連れて行った】
女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。
各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。
このため、【女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗る】などしたが、
【ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく】部屋に乱入すると
【女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった】
社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知すると
ソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。
女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、
すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。
ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。 >>577
このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自害すべきか話し合うようになった。
【その間中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や
「殺して下さい」などの叫び声】が聞こえてきたため、自殺することに決した。
隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自殺を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。
他の部屋では【ソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性】もいた。
8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、
女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。
事件後
その日のうちに女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された。
その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、
【シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらう】などしていたが、
牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると【毎日のようにソ連軍による略奪が行われ】
【女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった】
また、ソ連へ工場設備から列車の線路にいたる全てのものを
持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた
その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、冬が訪れると【飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡】 >>23
児童相談所がどうとかでなく 警察に届ければ
この男捕まるよね これくらい親にされただろ
今どきの子は甘やかされてんな 二頭の馬に左右の足をそれぞれくくりつけて二頭を逆方向に走らせろ 第2の雄大みたいな奴だな。死ぬ前に事件になって良かったかもな やっぱり義理の父親やったな
他の男の子供は育てられんのやろ >>1
クソマスゴミがガキを使って家庭崩壊させてるって何でわかんねえの?そりゃ反抗期のガキだもの、虐待、虐待、毎日、毎日、テレビで言えばちょっと怒られただけで通報するわ。親父が会社クビになったら路頭に迷うとかわかってねーもん。おまえらにも責任があるんだよクソども 神戸基準ではこういう暴力的な男が
「かっこええわあ」、「めっちゃいけてる」と憧れの的 もう20年近くバリカンで自分で髪刈ってるわ
顔とか首の産毛ボーボーなことを除けば時間とカネの節約になっていいよ
そんな俺もアル中キチガイオヤジに虐待されて心ボロボロやけど 40の女だが
こんなこと父はおろか母にも
日常的に息をするようにされてたが? 神戸って変に上品ぶっているけど元々荒くれ者が多く住む所だよ
兵庫全体がそういう土地柄 >>23
未だに昭和40年代みたいな部屋あるんだな底辺にも程があるだろ…ツイートから頭の悪さが出すぎてるけど 昔自分が9歳の時にまんま同じこと7つ離れた兄にやられたけど兄弟間だと単なるケンカになるのよね
バリカン顔面蹴り入れってスレタイだけでフラッシュバックしたわ
無理やり髪の毛刈られると他人を信じられず恨み節しか抱けない性格になるよね 半島ではいつもの事ニダ!!
何が悪いニダ!!<ヽ`∀´> バリカンで切るのは関係無いやろ
なんで印象操作してるんや
顔面に蹴りを入れたから暴行罪で逮捕ってだけでいいやろ 喧嘩キックを子供にやるって何やねん
格ゲーのやりすぎで小攻撃て思っとんのとちゃう? >>1
封印された占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件ファイル」
米軍の「嘘」を暴く鍵は、占頷下の1945年10月4日に解散させられた
「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。
米軍進駐後、「特高」は「治安維持法」に基づく監視の必要もなくなり、
もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。
そのファイルが377ページに及ぶ
「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。
マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの
米軍の不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。
「特高廃止」指令が出ると、全国の「特高」は、書類を焼却してしまった。
しかし「特高」の元締「内務省警保局」の秘密報告書は焼却されず、
【この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られた】
その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文書館に所蔵されていた。 >>596
あの国で悪いは褒め言葉やからね
良いて言われたら怒るんやろ? >>600
妻36歳、長女17歳に対し拳銃で脅して……
米軍の不法行為を明らかにする前に、
終戦後、【日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、苦心惨憺】した様子を少し述べてみたい。
日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、
戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだったのだ。
1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、
米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、
池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、
1945年8月28日「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。
その目的は、
「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。
【 GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令 】している。
しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。
実際は【 主権回復後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。 】
ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう
(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)
【 強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。】
8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。 >>602
強姦事件
・突然米兵2匹が民家に押し入り強姦、その際見張りまで立てている
・裏口から侵入した米兵2匹が拳銃で脅し家に居た妻と娘を強姦
・米兵3匹が留守中の妻を輪姦
・女中を連れ去り野毛山公園内米兵宿舎内で米兵27匹が輪姦、瀕死状態にする
このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。
当時の朝日新聞(1945年9月5日付)は三股見出しで
「神奈川県の女生徒は休校 教職員が家族を巡回指導」と記している。
しかし、
【9月19日、GHQ「プレスコード」が発令されて以後は、米兵を批判する記事は、新聞紙面からすべて消えている】
これで
【米国は、「強姦」など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう】
しかし記述のように
【「特高」の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていた】のだ。
こんなバカのDV男でも結婚して子供作れるのに
おまいらと来たら
w >>603
二九外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の
北林余志子氏の作成した米軍の横浜市内と県下の一部を含む、不法行動リストによると、10月末日までで強姦29件となっている。
しかも、【届け出ない件数は数十倍になると証言している】のだ。
「T子(十一歳・武蔵野市小学五年生)R子(同)A子(同)の三人は、
十月(中略)武蔵野の林のなかを仲よく手をつないで歩いていた」
《キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、
まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。
彼女達のスカートは切られ、何か起こったのか全然わからなかった。
子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと、
アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った》(要旨、以下同)
このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。
《N病院(=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった)は
三白のトラックに分乗した米兵によって、およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。
彼等の総数は二百人とか三百人とかという説もある。
婦人患者のうち重症者をのぞく四十故人と看護婦十七人、
ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された》 >>607
「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちの
ふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった」
「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、
一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」
「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」
そして、「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、
彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」−−慄然とする内容である。 >>608
官報号外、昭和28年2月27日に載った第15回国会の社会党の藤原道子議員の質問の議事録ではこのように書かれてある。
「米軍の暴行事件は、昨年十二月まで独立後、
八ケ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになって
おりまする件数は膨大な数であろうと想像されております」
いまだ数々の戦争犯罪に対して、一度も謝罪したことのない米国に、
なぜ毅然とした態度で挑まぬのか。
米国は、日本を非難する前に、ワシントン国立公文書館や米軍公文書館で調査してみよ。
慰安婦非難決議の第4頂にこうある。
「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」
この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。
占領初期のGHQ1945年9月『月例報告』では、
『日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行われた』
などと記載されています。
また、GHQ外交局長W・J・シーボルトは
『(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった』
『米兵達は、ジャップの女なんかには、手を出す気もしない』
と記しています。しかし、これら米国側の記録は真実ではありません。
>現代イギリス蛮族「強姦被害国日本が捏造詐欺娼婦に謝罪し幾度にも渡り金を渡す事を歓迎する!w」
>現代アメリカ蛮族「慰安婦は甚大な人権侵害!レイプセンター!性奴隷を要求し計画的日本人女性強姦も実行したアメリカは仲介役しゅる!w」
>現代ロシア蛮族「偽証と偽娼婦と米英豪蘭シナコリアの影に隠れて強姦魔の俺らはコソコソしとこう!w」
>現代シナコリア蛮族「強制連行性奴隷!大量の強姦被害に遭った日本はこんなに酷い!金くれw」
>日本人「ヨーロッパ蛮族と特亜蛮族はサイコパスのレイプマン」 >>3
そらそうよ
女の顔をグーでいける男はみんなモテるし既婚 なんでDQNに子孫ができて反映しておまいらみたいな優しい不細工には子孫ができないんだろうな
絶滅したインディアンを彷彿させるわ・・・この世はクソ >>1
輪姦、顔出し中出しバイブ突っ込み、髪のけにもザーメンでベトベト
泣き出しているのに、さらに髪の毛掴んで、ハサミで散切り頭にされ、最後…ガッタガタに、バリカンで剃髪
最後はキツめの酒を吐くまでラッパ飲みさせて、
吐いて失禁脱糞
これは、もともとav嬢なんだとしても、演技とか、
事前に内容説明されたものとは思えない怯え
こんなにひどいこと、いくら撮影、と言っても
人としての扱いを受けてなくて、可愛そうすぎた バリカンで坊主まではわりとよくあるけどまだ若い女の子相手に顔面キックは擁護しようがないな 結婚したかったらまずは女を思いっきり殴る事から始めないとな
それが出来ない男は女から相手にされない なんで肉体労働者がDQNなのかね?
この近所の神戸刑務所出てるけど、ヤクザばっかりで肉体労働者なんかおらんで また男の異常行動か
なんでこんなおかしなのが多いんだろう >>613
バッキー事件か
何年くらったか知ってんのか?お前 とび職や大工は一瞬の気の緩みで命かかってる仕事だから荒っぽくなるのよくわかるんだが
塗装はそこまでじゃないもんなあ ライオンは我が子を谷に突き落として育てるのと同じ論理だろ
たくましい子供が育つことを親御さんは望んでいるのかもしれない >>1
やっぱ義理の父親だってよ
http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up144055.png
だから言ってるだろ
日本人母子家庭は在日朝鮮人の格好の標的
女を落とせば連れ子はいじめ放題
女も洗脳されてるから子供は死ぬ運命
女が抵抗すれば暴力で服従させる
それでも抵抗するなら執拗に連れ子を狙う
朝鮮人は暴力で性的快感を得る脳機能障害生物
劣等感ありまくりで日本人を拷問することが何よりも快感
しかも対象は自ら助けを求めることができない幼い子ばっか 生理痛が酷すぎて体育のプールの時間保健室で寝てたら
体育の教師に髪の毛鷲掴みで昇降口まで引きずられて丸刈りにされた
生理でプールに入れない生徒は用具室の掃除って決まりだったのに寝てたから悪かったんだって
ちなみに担任には寝てて良いって許可もらっていた
髪の毛自分で掃除されられて悲しくて恥ずかしくて結局転校した
今なら訴えられたんだろうか >塗装業笹谷正夫容疑者(34)
普通に日本人違うか 午前1時に11歳を寝かしてないてだけで120%バカ親なのがわかる もっと早く保護できなかったんか。神戸だと珍らしくないのか。 でもこれ逮捕と言ってもこの後刑務所入るわけないしすぐ帰ってくるでそ?
なんか世の中やられたらその時点で負けだよね >>23
何があろうが絶対許せん。コイツ刑務所入れろ絶対入れろ。 >>1
パパカツとかキャバとか
そういうのお互いWii Wiiとか言うけど
旦那がイカレたり子供が同じ事する >>634
余裕で訴えられたけどそもそも今の時代そのレベルの教師は絶滅した >両親は4年前に再婚しており、男は長女の義父にあたる。
自分の娘の左目骨折するくらい暴力ふるうのかよ
と思ったらやっぱり この犯罪の原因は34歳塗装業の父親がDQN不良だからだろうね
マスゴミテレビ新聞が行ってきた犯罪の原因をオタクに求める姿勢は間違ってるよ
オタクがDQNより悪い事をするとかそんな事あるわけがないんだよ
現実は逆逆 実際、塗装工で倉庫じゃ無く自宅に商売道具置いてると家ん中がシンナー臭くてラリってるようなのがいるからな。 >>643
長女は施設に保護されてるそうだ
母親が見捨てたようなもんだから
この先もハードモードだね >>658
子供に親は選べないもんな
かわいそうにな >>1
こういうクズおじさんは意外と殴られたことない人多いんだよ
口だけ家族にだけ偉そうなバカ >>23
え、待って何これ
心臓ドキドキして泣きたくなった
子供がなぜこんな目に遭わないといけないの だが、かなよのじゅん子とし子もみさきも松尾も私の頭を使うのを止める気はない
みさきは自分の頭だと馬鹿にされるのが恥ずかしいから私に擬態を選ぶ
かなよも同じみんなに馬鹿にされたくないのと
かなよの脳は低機能機で1度に複数のことを考えたりやったり出来ない
同時に複数の情報処理が出来なくて不便だから
じゅん子も似たようなもの
とし子は頭が馬鹿に戻されたくないから必死(在日談)
のりこはかなよの頭が良くないとかなよが馬鹿にされるのが認められないほどにプライドと虚栄心が強い
のりこも頭私より低機能(在日談) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています