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病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」
という看護婦たちの涙の声がこだましました。

こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、
大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。

大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。

翌日の日曜日の午後、遺体は満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬られました。

北満州の虎林の野戦病院に勤務していた看護婦らは、患者とともに長春に移動したところで終戦を迎える。
進駐してきたソ連軍は、看護婦に別な病院への転進を命じたが、そこは強制売春のための施設だった。
勇敢にも大島花江看護婦は、その施設を脱出し、堀婦長らのもとに受難を知らせて事切れた。
翌日、病院の若い看護婦ら22名が集団自決する。
傷心の堀婦長のもとに、連れ去られた看護婦らが生きているとの情報がもたらされた。

場所は張春市内にあるミナカイデパートの跡で、地下のダンスホールに、
ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。
堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに向かいました。