【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★4 [樽悶★]
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北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
★1:2020/09/23(水) 14:12:50.82
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1601044083/ 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇地域
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となるわけだ >>1
> 大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は
> 直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ
> 中国から“卑弥呼”に贈られたという説もあります。
> また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は
> 祭祀に使われた大型の矛です。
【NHK佐賀放送局『よみがえる邪馬台国』展】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
「宇佐神宮」の主神、“比売大神”こそが卑弥呼で
神宮の立つ“亀山”が卑弥呼の墓だね
.
日本史板で出された結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>1
>>5
やっぱり、「邪馬台国」は “宇佐神宮” だろう・・・
(1)卑弥呼 = 比売大神 = 天照大神
(2)宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿
(3)謎の石棺の目撃証言
(4)奴婢百余人の徇葬と百体神社
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/yamataikoku.pdf
.
>>6
コラッせっかくの新スレをいきなり終わらせるな 魏人が「やまと」を聞き違えて「邪馬台国」って記したんでしょ? >>7
>>6の地図をみれば分かるが、金印の出た志賀島は海人族・安曇が志賀海神社に祖神を祀る聖地
漢委奴国王とは当時の伊都国王であり、海人族の優れた航海術を活かして中国に渡海して朝貢した
その後しばらくは伊都国が北部九州の宗主国だったが、倭国大乱を経てその地位を失い
筑後山門の邪馬台国に従属することになった
それでも旧宗主国として女王連合の中でも特別な地位が与えられていたのは魏志倭人伝にあるとおり 福岡では田圃から金印が出てきたり、兵庫では土砂採掘所から銅鐸が出てきたり、不思議な発見が多いよな。東日本では貝塚くらいしか出てこないのにw >>3以降
狗奴国は女王国(倭)の南
邪馬台国とは書かれていない
朝鮮半島から順番に訪れた場所を記載して倭国の領域を紹介してある
そのあと倭国の領域以外の国として狗奴国が紹介される
国の歴史は重いものだと思う
何度指摘されても過ちを正さないのは意図的だと思われるよ >>6
これを支持する。素人の俺の考えと合致。豚骨ラーメンがなぜか久留米発祥の訳、大川等の何も無いところが有数の家具職人の地域と長江あたりの文化や造船技術が入ってる。安曇は有明海から出発したと予想。水天宮本店も筑後川河口。 邪馬台国なんて架空の国
そんなの最初からなかったんだよ そろそろ九州説で納得させる証拠をバシッと出して欲しいわ 大王がいた所は地名のあたまに「御」が付いてる説を聞いたことがあるな
筑前なら太宰府のあった御笠
筑後なら御原、御井
「御」が「三」に書き換えられたなら、
三潴、三池も加わる >>14
弥生時代の西日本は縄文と弥生の共同作業で
古墳時代の東日本はジェノサイドと強制移民の歴史だから >>6
いつものコピペにいつもの単発IDで絶賛する自演 邪馬台国
九州なら地方のその他大勢の国
畿内なら後の日本の基 >>2
>>10
投馬国が狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部地域に在った倭人の国 >>19
前スレにもあるが、>>6の地図は免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも完全に一致している
文献の分析と出土品が一致しているという事実は強い
308:名無しさん 2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの >>21
>>29を見れば当時の中心地が北部九州であったことは疑いの余地がないよ >>1
>>9
“魏志倭人伝”に残された「距離と方向」の記述から
少なくとも九州の北東部に位置する“豊国”だろう
最終的に「邪馬台国」は“別府市街”にあった
―と結論づけている研究者もいるくらいだからw
https://news.yahoo.co.jp/articles/42003c8423721800c5516b594ac80e9450fbff3a
まあ、別府温泉に入る卑弥呼って、少し違和感があるが・・・
>>30
桃の種、土木工事跡、木製器具
遺跡見れば、開拓地だな。 大川家具確認したら、やはり発祥は造船技術者とあった。あと熊本の鞠智城跡、朝鮮からの攻撃に大野城らと共に備えたとあるが、あんな所で備えるか?邪馬台国南側の奈良大和の攻撃に備えたと思う。 >>29
邪馬台国の位置を特定することが君にとってどういう意味があるのか?
筑後国山門郡は日本書紀にも触れられている
大和との関連での言及はない 福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。
長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。
さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。
ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、
弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。
そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、
絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。 投馬国、ツマ
ツマは行き止まりという意味、とどのつまりのツマ
投馬国は海に面した端っこにある国
九州南部やろね
今でも都萬やサツマなど地名に残る
宮崎、大淀川流域、生目古墳群
円形周溝墓、前方後円墳、3世紀後半 卑弥呼の時代の博多
播磨など瀬戸内海系の土器が多数
九州北部は瀬戸内海系の勢力の支配下だったんだろう
当時の奈良も同じで東海や山陰、瀬戸内海系の土器が多数
こちらも征伐されて都が置かれたんやろね
奈良が征伐されてヤマト政権が始まる >>37
日本書紀は九州倭国時代を意図的に隠蔽しているからな
書紀の目的は天皇の権威強化であり、その源泉を天照大神の下した天壌無窮の神勅に求めている
即ち王権神授説である
その天照大神の正体が卑弥呼という生身の人間であり、しかも中国に朝貢して臣下の礼を取っていたというのは
大和朝廷にとって致命的に都合が悪いんだよ
実在が確実視されている古代天皇の平均在位期間から逆算すると神武天皇は280年頃、
卑弥呼は天照大神の世代に当たる
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/b5088bb621886ce3234badcc2fe432fd.jpg
21代雄略天皇から50代桓武天皇までは平均在位期間約10年でほぼ一定
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/9acf111959dd4a0085f1d48c22dd6b8f.jpg
そこから計算すると神武天皇は280〜290年ころの人
卑弥呼は天照大神の世代 九州を思って邪馬台国九州説を推していても
いずれ歴史の実相が明らかになれば
それまでの言説はマイナスイメージにしかならないと思う
日本の歴史は日本国民全体にとっての重要なテーマ
それについて、もし意図的に改ざんしようとする意志があったなら
とても肯定されないだろう
冗談半分でふざけ話のつもりでいたとしても
あとでごめんは通用しない 大和は国号だが、山門なんて一郡でしょ。
なんで国号を一郡で称すんだよw
国号がチクゴならそれに準じた名前になるはず。
あまたある郡から山門が選ばれたなんて都合良すぎ そもそも特定しようがないんだよな
現状、伝説の邪馬台国 国つ神=スンダランド系、縄文系、インダス系、連合のトップ、大国主
天つ神=渡来系、弥生系、古ユダヤ系と呼ばれる徐福、素戔嗚、天照大神
八百万の神=土蜘蛛系、先住系、騎馬民族系、漢系の神 宮崎の生目イキメ
奈良の生駒イコマ
島根の生馬イコマ
邪馬台国の官筆頭伊支馬
何か関係あるのか?
生馬神の伝承が参考になるかもな だがどんなに隠しても痕跡は残る
大和地方の長官である倭国造が北部九州の海人族安曇と同族であることもその一つ
もし大和朝廷が在地の豪族から発展したのであれば九州のよそ者を地元の長官になど就かせないよな
倭国造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0
> 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
>
> 氏族
> 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> 天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。 >>13
師升の国は伊都国でなく、伊奴国です。
この地域で新たに始まった、コメの新たな栽培法、これをイナ作と呼んだのでしょう。
記紀にも有るイナ城は稲を積み上げた城などではなく、この伊奴国式の堅固な城です。
伊奴国は半島からの渡来人たちによって建国された新たな勢力、伊都国によって滅ぼされました。
志賀島まで金印を持って逃げたのは伊奴国の王子だったか忠臣だったか姫君だったか。
伊奴国は滅ぼされ、後にその地域は単に奴国、那の津と呼ばれるようになります。
>>40
水行しか記されていないという事実が投馬国が島であったことを如実に示しています。
伊都国から南に水行して至る島、天草郡こそ投馬国でしょう。
海王ミミのこの国家は、おそらく狗奴国によって真っ先に潰された国家であったと思われます。
天草から大矢野島にいたる豊富な遺跡たちの変遷の模様がそれを物語っています。 >>49
魏志倭人伝に北部九州地域全体が邪馬壹国だと書かれてる。 >>48
国郡里制が出来たのは後世だろ
時系列を考えろ (其の2)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行500里到伊都国
伊都国の最有力候補地は、佐賀市山寄りの大和町川上大願寺地区だ、ここに古〜い大明神があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張(イツノオハバリ)」といった。伊都国(イツコク)の名残りであろう。
この地点は、唐津の古港・中原遺跡から東南37.5qで丁度500里である。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だな。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に伊都国から東の不彌国へ行ったのだろう。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに吉野ヶ里遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)と呼ばれた。これが不彌国という国名の面影なのではないか。 >>52
大和の支配者が九州人というのは東遷の決定的な証拠だろうな 生馬神
泉門塞大神ともいう。
伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰るときに、追って来た伊邪那美命と言い争いをした黄泉比良坂で、
伊邪那美命を黄泉の国に閉じこめた千引石のこと。伊
邪那美命を追い返した岩ということから道反大神、黄泉の入り口の道を守る者から泉守道者、黄泉の国との間を塞ぐ岩なので泉門塞大神、といわれている
また出雲風土記には、生馬神の子はもう荒ぶらないと言ったとある
イザナミを黄泉の国、泉に閉じ込め道を塞いだ神さま 吉野ケ里が邪馬台国?
寝言もほどほどにしてもらいたいものですね。
吉野ケ里は邪馬台連合の傘下に有った30ほどの国家群のひとつ、弥奴国の遺跡にすぎません。 倭国の領域を北部九州内に収めるのは無理
これを認めることから始めよう 卑弥呼は日の巫女、神子、御子
卑弥呼は徐福の子孫でありその子孫は神武天皇
出雲にも徐福の子孫がおり五十猛であり子孫が宿禰であり子孫が饒速日命
山彦、海彦は、山の日子、海の日子、つまり、天孫族の太陽信仰の王子
吾(われ)は日の御子(みこ)として日に向かひて戦ふこと良(ふさ)はずかれ賤(いや)しき奴(やっこ)が痛手(いたで)を負(お)ひつ今よりは行き廻(めぐ)りて日を背(そびら)に負ひて撃たむ」
【私は日神(ひのかみ)の御子なのに、太陽に向かって戦ったために痛手を受けてしまった。これからは迂回して、太陽を背中にして戦おう】 >>61
そんな根拠のないことを言われてもね
当時のクニは現在で言えば市町村レベルの範囲しか無いのは魏志倭人伝を見れば明らか
30国くらい北部九州に十分収まる 大和を拓いたのは徐福の出雲系混血(インダス文明を継承した出雲文化圏)の子孫
邪馬台国を拓いたのは徐福の九州系混血(スンダランド文明を継承した沖ノ島文化圏)の子孫
徐福は物部氏の祖であり新始皇帝の血縁者 >>64
邪馬台国までの記述の中に投馬国まで水行20日
さらに邪馬台国まで水行10日、陸行1か月
その邪馬台国のさらに北に21の国々があると記されている
とてもじゃないが九州北部の範囲に収まらない
これね、原典を読んでいればすぐ気づくこと
気づかないのは何かの原因で盲目になっているから >>6
地名の読みも面影があって面白いね
ところで畿内説ってまだあるの? 1世紀頃島根の神庭地方で栄華を極めた集落は軒並み営みを終焉している
その後加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかっている
イザナミが黄泉の国に逃れた話と関係あるかもな
新しい神の宮が畿内の何処に築かれたのか?
滋賀の守山に1世紀後半〜2世紀後半の首長同盟の祭祀跡と考えられる伊勢遺跡がある
巨大な銅鐸も見つかっており銅鐸勢力の祭祀跡だろう
伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね
政治の中枢であるが墓がない、宮ではなく国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある
銅鐸、鈴
鈴の宮はどこにあったのだろうか? >>68
そんなものはとっくの昔に論破された話
お前が無知なだけのこと
104 :日本@名無史さん :2019/12/11(水) 20:23:40.04
>>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
ルート分岐B ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
という構造 >>68
あとこれもな
そういうのはもう日本史板で研究され尽くしてるんだよ
73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
74 :日本@名無史さん :2019/08/23(金) 00:13:43.71
>>73により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる >>64
邪馬台国は7万戸
邪馬台国連合は15万戸+旁国21ヶ国
これをすべて北部九州に押し込むことは不可能
町おこしのため四国説とかいろんな説があるが、戸数の観点から
最も可能性が低いのが北部九州説 >>71
伊都國からの距離としてもそれほど意味はない
その里数の違いなど検討する意味もない
意味があるのはその後の水行20日
さらに、その後の水行10日陸、行一月
さらにそれ以降とされる国々への距離
しかし、君の意見でどう説明できるのか、それを聴いてみたい 邪馬台国の長官は伊支馬であり、
コレは宮崎市の生目を示している。
また、投馬国の長官は彌彌、彌彌那利と言い、
美々津耳川周辺の豪族を示している。
もちろん、投馬国は妻、都間であり、
宮崎を示している。
狗奴国は熊襲球磨であり、
狗古智碑狗はどう見ても久々知=菊池であり、
これだけとってみても、
邪馬台国は北部九州で間違いないだろう。 >>74
当時の北部九州の耕地面積は、
畿内を大きくしのいでいる。
圧倒的である。 >>73
それなら投馬国までは水行20日で陸行できない場所?
九州の中で比定できる場所があるなら教えてほしい >>53
イネは、原産地の言葉に基づくもので、ジャワの
スンダ語「binih」、セレベス島のバレエ語「wini」
などと同源とする説 もあるそうだ。
http://gogen-allguide.com/i/ine.html >>1
> 水行十日、陸行一月―。「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのか。
伊都国(福岡県糸島市)
↓
水行二十日
↓
投馬国
↓
水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
この時点で(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるよね?
学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
もうみっともないからあきらめろよ >>81つづき
日本人は、シベリア人、スンダランド人、華北人の混血。
縄文人=シベリア人+スンダランド人
弥生人=スンダランド人+華北人
なので、イネの語源については、スンダ語かも知れんな。 亀レスだが
北松浦半島と東松浦半島のくだりはなにが問題なのかよくわからないな
南牟婁郡と東牟婁郡とか、品川駅と北品川駅とか、一見不思議なやつって世の中には稀にしばしばあるものだろう
それに比べれば全然変じゃない 天橋立の天女伝説によると、
8人のきらびやかな羽衣を着た天女が降り立って、
そして絹織物と酒を伝えたと言う。
8人の天女=八女である。
北部九州が絹織物の先進地だった事が分かり、
それが丹後に進出して行った事がわかる。
そして、酒の生産地であったこともわかる。
そしてそれらを女性が作っていたこともわかる。 東に海を渡るとまた国があってみな倭人である
そんな場所は九州しかない 畿内説
「魏志倭人伝の記述は日数はあってるが方角が間違ってる。よって邪馬台国は畿内にあった」
九州説
「魏志倭人伝の記述は方角はあってるが日数が間違ってる。よって邪馬台国は九州にあった」
どちらも都合よく解釈し過ぎである。
正解は
「魏志倭人伝の記述は日程も方角もあっている。よって邪馬台国はかつて陸地であった九州南海上に存在した」
と言ったところだろう。 >>79
宮崎の都萬
>>6の地図通り、間に巨大な九州山地があり陸路では無理 帯方郡から邪馬壹国まで万二千里
伊都国まで一万五百里
残り千五百里だから距離的には大分も十分考えられるな 山門八女にある卑弥呼の墓とされる祇園山古墳の山頂に、
筑紫の一の宮、高良大社があり、
高良大社の大祝家は丹波氏であったという。
丹波氏は出雲から丹波丹後に入り、
元伊勢籠神社で豊受大神を祀り、
そして伊勢に入って伊勢神宮を建てる。
おそらくこれが邪馬台国の生き残りであろう。 邪馬台国の風習として記録されているもの
巫術
泣き女
刺青
これ全部、ヤマト王権では残ってない。
仮に邪馬台国がヤマト王権の前身だとするなら文化が途絶えている訳で、
邪馬台国は地方政権、卑弥呼は熊襲の女酋長と考える方が妥当ではないだろうか。 自分は九州が好きで
国東半島のあたりは神秘的なイメージに包まれる
でも本当に九州が好きなら歴史の真実に向き合う姿勢が必要
九州は充分歴史のキーマンを担って来たのだから
おおらかに歴史に向き合う度量を示すべき なんかアトランティスはどこかみたいな話なんだよな
ロマンはあるが実はないという
まあ違うのは邪馬台国は絶対にあるという前提で語られてるのが違うが >>85
天橋立は志賀島に似てるよな。志賀神社では今でも八女の巫女が八人で舞う儀式あり。安曇の本拠地であり呉からの人たち。 >>94
入れ墨は倭国の南方倭地の風習に触れた部分
これは呉への牽制
しかし、よく調べていると感心する 犬、猫、猿、鹿についての記述がない
発見出来なかった?それともいない? >>97
志賀島に続く砂州は潮が満ちると一部水没し、干潮時に浮かび上がってくる
天橋立と同様に細長い砂州を橋と表現するのなら、天の浮橋とはこれのことだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています