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 「なぜこんなことになったのか、これからどうしたら良いのか……」

 2019年4月下旬、筆者が代表を務めるNPO法人WorldOpenHeartの「加害者家族ホットライン」に、父親が運転していた車が事故を起こし、多数の被害者を出してしまったという家族から電話が入る。

 被害者の方々の容態が心配で、車に同乗していた母親も生死にかかわる重傷だという。何日も食事が喉を通らず全く眠れていない。言葉は少なく、憔悴しきっている様子が伝わってきた。

 精神的に相当追い詰められている相談者に対し、筆者は精神科に行くよう促し、無事を確認するため何度か電話を入れていた。相談は匿名で、事件の詳細をあれこれ聞くことはしない。相談者が、「池袋暴走事故」の加害者家族だと判明したのはだいぶ後のことだった。

バッシングに苦しむ日々

 「正直、逮捕してもらいたかったです……」

 家族はそう話す。

 被告人が逮捕されなかったのは、旧通産省の官僚だったからだという「上級国民」バッシングが始まった。ネット上では、「死刑にすべき」といった厳しい批判や被告人への罵詈雑言で溢れ、被告人の自宅には嫌がらせの電話や手紙が届くようになった。バッシングは被告人だけにとどまらず、「家族も同罪」「家族も死刑」といった書き込みもあった。

 危険なのは塀の中より社会である。家族にとっては、被告人が警察署内に拘束されている方がよほど安全で気が楽なのだ。

 ところが、ネット上では加害者の不逮捕に家族も関係した可能性があるという憶測が飛び交っていた。被告人は事故発生直後、「救急車が到着する前」に息子に携帯電話をかけていたと報道された。

 しかし、実際、息子が電話を受けたのは事故から55分後だった。この報道によって、被告人が息子に揉み消しや不逮捕を依頼したのではないかという疑惑が生じたようである。

 本件を報じるテレビ番組では、「フレンチに遅れる」といった「上級国民」を強調するテロップが使われバッシングは過熱したが、被告人が向かっていたのは、遅れても構わない馴染みのごく普通の小レストランであり、「フレンチ」という表現には違和感があるという。

 「医師から運転を止めるように言われていたにもかかわらず運転していた」など、悪質性を裏付ける報道が続いたが、そのような事実はなく、車を擦ったりぶつけたりといった家族が不安になるような問題も起きてはいなかった。

 それでも加害者家族は、罪を犯しても逮捕されない卑怯な「上級国民」として形成されつつある世論に抗う術はなかった。報道陣は家族のところも来たが、加害者家族の立場で発言しても揚げ足を取られ、さらにバッシングが酷くなるとしか考えられず沈黙を貫くほかなかったのである。

(略)

 2018年1月9日、車の暴走によって高校生一人が死亡、一人が重傷を負った事故の一審・前橋地裁で無罪判決を受けた当時85歳の男性が、家族の意向により、控訴審で有罪を主張するという異例のケースも報道されている。

 この背景には、加害者家族に向けられる終わりなき社会的制裁が少なからず影響している。

 加害者が高齢者で被害者が若年者であった場合は特に、世間の処罰感情は強く、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというようにその矛先は家族へと向けられる。

 甚大な被害に対して、誰かが相応の責任を取らなければ収まらない世間の処罰感情に応えるように、加害者家族が自ら命を絶つケースもあり、世の中は事件の幕引きを図ってきたのだ。

 しかし、加害者家族が代わりに罪を引き受け犠牲になることは、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって事件の本質的な解決にはならない。

 本件において、被告人の子どもたちは被告人に対して、影響力を有する関係にはなかった。被告人は一般的には高齢であるものの自立した生活を送っており、子どもたちがコントロールできるような親ではない。したがって、被告人の言動に対して子どもたちにまで責任があるというには無理がある。

 「上級国民」バッシングは、近年、加速しているように見える格差社会の間で無力感に苛まれている人々の復讐であり、不満の捌け口にもなっている。

 しかし、家族も含む加害者側への行き過ぎた制裁は、「被告人はすでに社会的制裁を受けている」という減刑の材料にもなり、厳罰化の主張に対して逆効果を招くことさえあるのだ。


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