日本がネーションビルディングを行った明治時代、国内には風貌、言語、文化の違いが顕著に残存していた。
檜山鋭『対外日本歴史』(1904年)は、「日本全国を旅行せしもの何人も其容貌に於て、其言語に於て、其性質に於て、其風俗習慣に於て、
九州と、近畿と、東北と、同じ九州にても南部と北部との間に於て頗る著大なる差違あるを発見する所なるべし」として、
皮膚の色、顔立ち、骨格、髪やひげ等によって、大和、蝦夷、熊襲、筑紫等の(民)族が識別できる旨述べている。

また文化については、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「出雲再訪」(1896年)で、19世紀末の段階で、衣服や髪型といった容姿、音楽、
風俗習慣(娯楽、祝日、祭礼儀式)、使う道具・文物(扇や青銅器、陶磁器、家庭用品や木工品、農具や漁具)に至るまで、
出雲には他国と全く異なる独自のものが残存していたと、書き残している。
大和、出雲、エミシ、クマソ等の民族概念の創出は、そうした現実を伴って、生まれ出たものでもあった。

『新編皇国史要』は、「熊襲の服従」(第4章1節)で「熊襲とは、今の日向・大隅・薩摩の地方に居りし蛮族にて、強暴のものなりき。
景行天皇の御代に反きて筑紫大に乱れければ、天皇親征して賊魁を誅し、悉く西国を平定し給へり」と記す。
文部省『尋常小学国史(上巻)』(1935年)の第3章「日ヤマトタケルノミコト本武尊」も同様の記述だが、「神武天皇が大和にお移りになって後は、天皇の御威光はおひおひ四方に広がっていった。
けれども、都から遠く離れた東西の国々には、なほ悪者が大勢ゐて人民を苦しめてゐた」として、善徳の大和・天皇と、「人民を苦しめる悪者」クマソとエミシの対比をより鮮明にしている。
これが史実として、学校教育で教えられた。

クマソやハヤトが「古代南九州の住民」であると言われる以上、今の南九州人のかなりの部分は、クマソやハヤトの末裔ということになる。
宮崎県庄内地方は、古代クマソの勢力の強い一拠点で、「クマソ踊り」という郷土芸能が伝承されているが、それはヤマトタケルに征服されたクマソを舞踊化したものだという。
ところが踊りの内容は、クマソが征伐されたことを喜んでいる住民の踊りなのである。自らを征服者ヤマトの側に置き、同胞と祖先を見下す、アイデンティティの歪みが見受けられる。