●古代史の現場を撮る
南郷柳原遺跡 遺構に渡来人の痕跡

ヤマト王権を支えた中央豪族として名を残す葛城氏。5世紀ごろの王権のあり方を考える上で非常に重要な存在だ。

 日本書紀は、その祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)について朝鮮半島との関わりが深い人物として描いている。

 神功皇后5年、襲津彦は朝鮮半島への一時帰国を望む新羅の人質を引率したが、対馬でだまされ、逃がしてしまった。襲津彦は怒って新羅の城を落とし、連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来人の祖先になった−−。書紀はこう説明する。

 葛城氏の本拠と考えられているのが現在は棚田が広がる金剛山のふもと、御所市にある南郷遺跡群(東西1・4キロ、南北1・7キロ)だ。居館跡とみられる5世紀後半の石垣などが1989年に見つかった名柄遺跡の南方に当たる。

毎日新聞2016年10月4日 


●弘仁新羅の乱 (朝鮮渡来の難民部落の騒乱)

弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に
移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱
を起こし、日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧でき
なかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、
全員が降服した。

かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に
口分田まで与えて帰化を認め寛大に遇して恩を与え
たが朝鮮渡来の流民たちは、恩を仇で返し博多など
に土着して本国と違法な交易を目論み、それを見透
かされ東国に移されたことを逆恨みした。

この乱以降、 北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、 群馬を中心に関東各地、 東北にも少数住ま
わせる事になった。