【鳥取】弥生時代最大の「鉄矛」出土、国内初 祭祀で地面に突き刺す? 「儀礼の歴史に新たなページが加わった」 [樽悶★]
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中尾遺跡から出土した(左から)鉄矛、板状鉄斧、鋳造鉄斧(鳥取県倉吉市教育委員会提供)
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201102-00000199-kyodonews-000-2-view.jpg
鳥取県倉吉市教育委員会は2日、同市の中尾遺跡で弥生時代中期(約2100年前)の竪穴住居跡から国内最大の鉄矛(長さ54.3センチ)のほか、板状鉄斧(同27.5センチ)、鋳造鉄斧(同11センチ)が出土したと発表した。
住居跡は焼けていたが、板状鉄斧は床面に突き刺さっていた。鉄矛も刺さっていた可能性があり、担当者は「当時、鉄製品は貴重で、火災なら後で回収したはず。住居廃絶に伴う祭祀に使われた可能性がある」と話している。
鉄矛は韓国南部の茶戸里遺跡で出土した鉄矛(長さ約59センチ)と形状が似ており、板状鉄斧も朝鮮半島、鋳造鉄斧は中国で作られたとみられるという。
11/2(月) 21:16配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201102-00000199-kyodonews-cul
倉吉市教委は2日、中尾遺跡(同市)の約2100年前に焼失した竪穴建物跡から、弥生時代では国内最大となる長さ54・3センチの鉄矛と、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土したと発表した。いずれも朝鮮半島か中国製。副葬品としてではなく、竪穴建物から3種類が完全な形で見つかったのは、国内で初めて。
貴重で実用性の高い鉄器が再利用されず原形をとどめており、海外から鉄器を入手できる有力な勢力が、住居を意図的に燃やす祭祀(さいし)に使ったとみられる。内陸の丘陵地に位置する中尾遺跡が、日本海と中国山地、瀬戸内海を結ぶ交易拠点であった可能性が浮上した。
鉄矛は国内最大だった東入部遺跡(福岡市)の長さ43センチを上回った。柱穴の土に突き立てられていたとみられる。板状鉄斧は長さ27・5センチと国内最大級で、柱の根元に刃の反対側を突き刺し、刃が上を向いた状態だった。鋳造鉄斧は長さ11・0センチで、床面にあった。
愛媛大アジア古代産業考古学研究センターの村上恭通教授は「前例のない形態の出土で、儀礼の歴史に新たなページが加わった。弥生時代の交易拠点は青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取市)など沿岸部に多いが、内陸部にも力を持つ人々がいたことを示す」と評価している。
11/2(月) 20:25配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201102-00010006-chugoku-soci
鳥取県倉吉市教委は2日、市内の中尾遺跡で、弥生時代中期の竪穴住居跡から弥生時代では国内最大となる全長54・3センチの鉄矛が出土したと発表した。朝鮮半島で作られて持ち込まれたとみられる。板状と鋳造の鉄斧(てっぷ)もそばで見つかった。これら3種の鉄器が同じ場所から完全な形で見つかるのは国内初。祭祀(さいし)で使われた可能性があり、祭祀の形態や鉄器の流通ルート解明のための貴重な資料となる。
工業団地の整備に伴い、2019年8月に発掘調査が始まった。住居跡は約2100年前のものとみられ、標高約25メートルの丘陵にある。鉄矛と、朝鮮半島からの舶来とみられる大型の板状鉄斧(全長27・5センチ)が住居内の地面に突き立てられ、住居ごと燃やされた形跡があった。当時は国内に製鉄技術はない。貴重な鉄器が住居から回収されていないことから、市教委は「家を廃絶する儀礼など、何らかの祭祀で使われたのではないか」とみる。鉄器を住居ごと燃やす祭祀の例はこれまで確認されていない。
権力の象徴とされる鉄矛は希少で、九州北部では有力者の墓から副葬品として十数例が確認されているが、住居跡から見つかるのは極めて珍しいという。
県中部に位置する中尾遺跡から北東約20キロにある鳥取市の沿岸部には、朝鮮半島や大陸との交流拠点だった青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡があり、今回発見されたものより小型の鉄斧が出土。中尾遺跡は、この遺跡と瀬戸内側を結ぶ中継拠点として鉄器がもたらされたとも考えられるという。
村上恭通(やすゆき)・愛媛大教授(考古学)は「九州の北部では副葬品や葬儀に鉄器が使われる例があるが、これほど立派な鉄器が住居に残されていたのは極めて特異」と指摘。「住居に火を放つ際、貴重品をささげてでも実現したい願いがあったのではないか。弥生時代に行われた新しい形の祭祀を考えさせられる発見だ」と話した。
現地説明会は14日午前10時から計4回あり、定員は各20人。事前申し込みが必要で、問い合わせは倉吉市教委文化財課。【野原寛史、花澤茂人】
11/2(月) 17:48配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201102-00000048-mai-soci >>184
>大阪は仁徳天皇が埋立し土地開拓したからね
大阪湾の近くの平地で、近くに高い丘もないから人工的に盛土したとしか思えない。
俺の勝手な想像だが、災害で上流から流されてきた土砂の除去⇒整地か、淡水湖沼の
土砂の浚渫⇒盛土だろうな。墓には違いないが、2次利用的なものだろう。何でもかん
でも祭祀に結びつけるのはバカとしか思えんw 歴史はマルクスが言ったとおり「唯物」
的に解釈するのが合理的だぜwww >>192
倭奴国は卑弥呼が抑えたから使えるでしょうよ
狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とは戦争状態だったから
こいつが邪馬台国滅ぼし東征に向かうのが自然
https://youtu.be/PSLRbKU82cY
神武は宮崎出 >>202
倭奴国は卑弥呼が抑えた?
九州倭奴国筑紫城の
初代国王は、天之御中主神で
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
ときて、息子の「大綿津見神(豊玉彦)」が統治
彦火火出見尊(山幸彦)が大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚して跡を継ぎ
山幸彦の次ぎに国王になったのが、彦瀲(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)
その四人の息子たちが東征して、奈良と出雲の連合国の邪馬台国「親魏倭王」を武力鎮圧
末っ子の「神武」が総督としてそのまま奈良に残り、九州倭奴国筑紫城から分家して
奈良を九州【倭奴国】筑紫城の植民地にしたんだけど? >>203
下賜ではなく、朝鮮王族が逃げてきて倭国で死んだんだろう なぜ神武たちは東征したのか
その理由は
畿内の邪馬台国は、奈良から投馬国(近江)不弥国(摂津住吉)を経由して因幡(鳥取県東部)に出て
伯耆(鳥取県西部)、出雲(島根県)、隠岐と
葦原中国(古代出雲)から大陸に渡った
しかし
朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを先祖代々使用してきた神武の、九州倭奴國筑紫城王家には、畿内から大陸への迂回路が確立されてしまうのは都合が悪い
なので『古事記』に
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。 それでは、九州から畿内に東征し、天皇を名乗った分家の神武政権は、その後、どういうルートで大陸と行き来しようとするか
それはやはり、本家が先祖代々使用していた朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを奈良から利用しようとするだろう
で、遣唐使のルートは
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良 >>205
邪馬台国に属するとなってたよ
だったら邪馬台国は東征ルートも使えないじゃん
どうやって行くの >>14
>なんでも祭祀朝鮮言っときゃいいんだから考古学は楽なもんだ
ほんとこれ
なんでも祭祀、朝鮮半島、中国大陸だもんな
真面目にやれ 土偶なんて、ただの大人のおもちゃだったかもしれないじゃん >>209
最初の頃の遣唐使は、当時、最大の港であった難波津(大阪湾)から出航し、瀬戸内海を通って筑紫(北九州)へ向かい、その次に筑前・大津(博多)を経由して、壱岐・対馬を過ぎると、朝鮮半島の西岸に沿うかたちで黄海を北上し、渤海湾から山東半島へ上陸し、その後、陸路で長安へ向かう北路というルートがとられていました。
600年頃の話だし参考にならないほどの立派な船だな >>213
遣唐使の時代よりも3〜4世紀のころの方が航海技術高かったんじゃないか
朝鮮側の歴史書に倭人がたびたび朝鮮半島の海岸を襲ったって書かれてる
5世紀頃まで海戦では倭国は朝鮮半島の国を圧倒してる
倭国正規軍じゃなく倭人の海賊が朝鮮半島の正規軍を圧倒して、手に負えない姿が朝鮮半島側の歴史書に書かれてる >>214
もっと前からですよ
『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与された
倭奴国に変わって卑弥呼邪馬台国が使者を遣わす
んだから必然的に邪馬台国は九州
闘う頻度も貿易も盛んだから鉄や武器の出土が多くなるよね >>176
どうやって使うって、そりゃ槍だと近すぎる近接戦で刺す具合で使うだけでしょ。
材質が弱いと叩く角度では折れやすいから突く。 >>203
朝鮮が日本に朝貢していた。日本に帝がいるのは朝貢国があったから。 >>200
半島の東岸は海流の関係で日本の日本海側と行き来しやすいとか言うね。 魏より優れた航海術を持っていた呉でさえ遭難して酷い目に遭っていた時代に、魏の使者を乗せた船が沖に出て海流に乗って目的地を目指すなんて無謀なことをできるわけがない
だからこそ『郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓(くやかん)国に到る七千余里』という記述になる
海岸線を目視できる航路しか選べないんだよ
『始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る』の対馬国は朝鮮半島から目視できる対馬
当然、壱支国は対馬から目視できる壱岐
末盧国は壱岐から目視できる呼子海岸
そこから陸路を東南に進んで松浦川を越えたら東に進んで伊都国
対海国は対馬国の誤写
理由は当時は草書で記されていたから
書道家が言うには『海』と『馬』の草書体は似てるんだそうだ >>215
バカジャネーノ
倭奴国に変わって卑弥呼邪馬台国が使者を遣わす
んだから必然的に
邪馬台国は九州では無い
闘う頻度も貿易も盛んだから鉄や武器の出土が多くなるよね >>219
隋書には
都斯麻国(対馬)から、東で一支国
とあるけれど、これも誤写かよ(笑)
なんの根拠も無く誤写だと言い
そうじゃねーと成り立たないとかバカ丸出し
だから
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>219
残念でした
島根県松江市から出土した、弥生後期(2世紀前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の紀元前の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土したことは
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「光武賜以印綬」の記述の印綬が出土してる「倭奴國」の、九州ー対馬ー朝鮮半島のルートとは別に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)
から朝鮮半島へのルートが存在していたことの証明となり
倭の国々が大陸に渡るにあたり、古くから、
必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったという結論に繋がりました 『魏志』(倭人伝を含む)は、実際に邪馬台国の壱与から数回朝貢を受けた西晋(265年 - 316年)によって書かれているため
『魏志倭人伝』の記載が近年、考古学的な事実で次々に正しいと確認されているけれど
『魏志倭人伝』に記載されている
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
という
対馬も九州の国々も出てこない、阿蘇火山も出て来ないルートも、
誤字や誤写などでは無く、正しかったと確認されました >>222
度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國
竹斯國は筑紫國だよね
一支國を隠岐とすると朝鮮半島から隠岐へ渡ったあと一旦九州に戻るというメチャクチャなルートになってしまう
地図を見たらいかに不自然なルートか良くわかる
『南望聃羅國』がポイントで、聃羅國(済州島)を南に見ながら東の対馬へ航行している
狗邪韓国(釜山)まで海岸線を進んでから初めて大海を渡った魏の時代よりも航海術が上がっているわけだ
そして済州島よりも手前な以上は、竹島は現在の竹島ではなく珍島あたり
『至都斯麻國』ではなく『經都斯麻國』と記述しているのもポイント
あくまでも対馬は経由地で、又東至一支國というのは竹島(珍島)から東ということだろう
一支國から末盧国を経ずに竹斯國へ到着しているのも航海術が発達した証拠
それでもいきなり中国地方へは行かず九州北部へ寄っている
それはそうだ補給を考えたらその方が効率がいい >>222
その一支国は沖ノ島だろ
あなたが勝手に隠岐の島と言ってるだけで
南北の方角はずれて斜めになってることも忘れないように >>199
>ゴールデンアームボンバー藤村?
ゴッドハンド(神の手)と呼ばれていたな、Fさんはw 朝鮮半島は、この2000年間でモンゴルとか
北から来た人に替わった。
10世紀の白頭山の巨大噴火(富士山大噴火の100倍以上)で
ソウルは1メートルの降灰。壊滅している。 銅矛の出土状況は基本的に埋める形だからな
副葬品や、どこかの特定ポイントに埋める形
そう考えるとこの祭祀は相当変わってるな
鉄器と言うのも通常知られてる物と違う
異質な集団の祭祀と言うのは正しいかもしれない
武器として使えるタイプの物らしいからかなり初期だな
矛が祭器として特化する前の過渡期の集団の祭祀か 後漢書見たら朝鮮半島滅ぼしたのは中国となってた
卑弥呼より前には朝鮮に渡ってるが
丸腰で行くかな 弥生時代にタイムスリップした人が中二病だったんじゃないの >>230
でも確かに呪術っぽいよね
斧や矛を突き刺して家焼いてるとか
戦いと言うには不自然だし
仮にだれか殺したんだとしてもそのまま放置とか 2100年前だから紀元前80年
卑弥呼は紀元後200〜250年のもっと前
倭国大乱時代に鉄は輸入されてたとか >>197
その漫画のせいで、日本の高齢者に間違った天皇像ができてしまった。
今の研究では、天皇家は日本の土着民族の集落の長で、その土着集落が大きくなって日本を統一したという説が一番有効で、そういった大陸から来た騎馬民族説が日本の土着民族を整復していったと言う説は完全否定されている
第一、大陸から来た征服民族が、何で自分たちの言語を話さずに、土着民族の言葉を学んで受け入れていったんだよw
あと、その頃の大陸の騎馬民族は文字を持っていたので、正確に記載した記録を残すはずだけど
天皇家にはそんなものが一切存在しないと言う矛盾点を当時の学者が誰一人指摘できなかったと言うお笑いの説。 >>236
倭国大乱じゃなかったわ
卑弥呼より前に鉄もあったし中国に行く船もあった >>237
そもそも天皇っていう
中国律令丸出しの呼称は
ヒミコの時代には確実に存在しないだけどな
その200年後に「大王」って書いてんだから 日本が律令風に染まったのは
その大王と書いたときのさらに200年後
明治政府は稲荷山古墳鉄剣とか知らんから
万世一系とか平気でいえるが
いま我々はそれを知ってるから
天皇という律令様式のトップは少なくとも400年以前はいないと
はっきり言える
そもそも中国本土の律令より前だしw >>230
おまいらの持っているエロフィギィアも、1万年後には祭祀用ってことになるぞ >>242
元々は豪族連合体の盟主のトップで、国家概念以前からの存在だしな。 蘇我が皇族殺しまくったからその前は都合が悪いんだろ
遣隋使の小野妹子も色々盗まれたで誤魔化してるし >>245
まあそのワカタケル大王ってのは
埼玉から九州まで影響があったようなので
ほぼ中世以前の日本の王かもしれんけどw 他の地域でも時代でも全く見ない祭祀だからかなり局地的な集団の儀礼だろうな
しかし、すぐに渡来とか言うけど肝心の大陸で同様の祭りが見つからないんじゃ渡来かどうかも分からんよね
日本の一部で行われていた奇祭かも知れないんだし
なんでも安易に渡来とか言うのはどうかと思うが >>225
答えは簡単だ
九州から畿内に東征し、天皇を名乗った分家の神武政権は、その後、どういうルートで大陸と行き来しようとするか
それはやはり、本家が先祖代々使用している朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを奈良から利用しようとするだろう
で、遣唐使のルートは
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良 >>225
それに、いい加減、一支国と一大国を同一視するのをやめろ
『魏志』(倭人伝を含む)は、実際に邪馬台国の壱与から数回朝貢を受けた西晋(265年 - 316年)によって書かれているため
『魏志倭人伝』の記載が近年、考古学的な事実であり、次々に正しいと確認されている
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「光武賜以印綬」の記述の印綬が出土してる「倭奴國」の、九州ー対馬ー朝鮮半島のルートとは別に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在することも
島根県松江市から出土した、弥生後期(2世紀前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土したという考古学的事実にによって、古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが確認され
『魏志倭人伝』に記載されている
対海國 〜 一大国 〜 末廬国 〜 伊都国 〜 奴国 〜 不弥国 〜 投馬国
という、対馬も、壱岐も、九州の国々も出てこない、阿蘇火山も出て来ないルートも、誤字や誤写などでは無く、正しかったと確認されたんだ >>241
畿内の邪馬台国は、奈良から投馬国(近江)不弥国(摂津住吉)を経由して因幡(鳥取県東部)に出て
伯耆(鳥取県西部)、出雲(島根県)、松江(島根県)隠岐と
葦原中国(古代出雲)から大陸に渡った
しかし
朝鮮半島ー対馬ー壱岐のルートを先祖代々使用してきた神武の、九州倭奴國筑紫城王家にとっては、畿内から大陸へのルートが確立されてしまうのは都合が悪い
なので『古事記』に
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、
兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国(出雲)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
そして葦原中国(出雲)と邪馬台国(奈良)を平定して、あらためて
「我は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の皇子である」と名乗った
で
天(津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)皇(子)だからね >>249
本家から追い出されたんだから本家と同じルートは取れないだろアホか >>252
そうですよ
分家なので、対馬を使わせて貰えなかったのです
『梁書』倭人伝
帯方郡から倭に至るには、海(岸)沿いに航海して韓国を過ぎ、東へ行ったり南へ行ったりしながら、七千余里で、初めて一海を渡る。
海は広く、千余里。瀚海(広い海)と名づけられている。
一支国に至る。
また一海を渡ること千余里、名は未盧国 そして
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良 そうですよ、分家なので、対馬を使わせて貰えなかったのです
『梁書』倭人伝
帯方郡から倭に至るには、海(岸)沿いに航海して韓国を過ぎ、東へ行ったり南へ行ったりしながら、七千余里で、初めて一海を渡る。
海は広く、千余里。瀚海(広い海)と名づけられている。
一支国に至る。
また一海を渡ること千余里、名は未盧国(松江)
で、我慢の限界で、ヤマトタケルの西征で、
未盧国(松江)からの航海を司っていた隠岐の島の
出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、吾田片隅(アタカタス)一族を博多に遷して宗像氏とし
百済− 竹嶋 − 耽羅国(済州島)を南に見ながら − 都斯麻国(対馬)− 東の一支国 − 西に戻って竹斯国(筑紫)− 東の秦王国 − 十余国を経て − 奈良 しかし、
狗邪韓国から、いきなり絶海の孤島の対海国(対馬では無い)に出て
対海国から南の一大国(隠岐の島)に渡り、末廬国(松江)に上陸
という海流の影響が少ない海路を、先祖代々、続けてきた
出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、吾田片隅(アタカタス)を祖先とする宗像氏は、
海流が激しい対馬海峡を航海するのは得意ではなく、
大和朝廷は、西征で破れた本家が利用していた海人族
九州 【倭奴国】筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)を祖先とする阿曇氏を、再び起用することとなる で、本家が利用していたために、
西征で本家を平定した分家の大和朝廷により
九州北部から、海が無い信州に閉じ込められていた海人族
九州 【倭奴国】筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)を祖先とする阿曇氏
が、再び表舞台に出てくるわけだ 考古学なら バカでもできる 祭祀祭祀と 言えばいい By 詠み人知らず www >>251
漢字で書くなってw
皇帝の皇とかw
中国律令前の古代日本から
その律令くせえ漢字を消せ 漢字の習得レベルをざっくりいえば
200年ヒミコ=ゼロ
400年ワカタケル=うっすら
600年奈良=習得
こういうことだから
200年の話を中国律令風の漢字で書くなw 無駄だよ
その人は自分の考えを垂れ流すことしか考えてない
本家だ、分家だ、って神武天皇が四男だっただけでそこまで妄想を広げちゃってる
でも、長男は戦死、次男と三男は暴風雨にあって遭難、生き残ったのが四男ってだけだ >>1
>貴重な鉄器が住居から回収されていないことから、市教委は「家を廃絶する儀礼
など、何らかの祭祀で使われたのではないか」とみる。
ああ、そうですかw 敵の攻撃によって家が全焼し、逃亡を余儀なくされ、貴重
な鉄器も焼けて使い物にならなくなったので、敵も見捨てた・・・とかはないの? >>247
まぁ、イングランド王以上の版図だしね。 考古学的に見れば、
この後、銅剣銅矛が全盛になっていくんだから、
鉄矛でイキってたら、
銅矛銅剣勢力にやられて無念で放棄したところだろうな。 祭りとかじゃなくて、攻め込まれて敵の勝利宣言の
印なんじゃないの。 >>267
その前に鉄鏃で負けた
どっかの邪馬台国みたいに >>263
三男の「三毛入野命」は高千穂に戻って本家の跡を継ぎ
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の次の九州倭奴國筑紫城国王になりましたよ >>270
そもそも神武の家系は九州でも宮崎に左遷されてる
宮崎に左遷された家族のさらに立場の弱い神武が畿内攻めて一発逆転狙ったってだけ 倭奴国王家とかどうでもいい
博多湾は外国勢力の難民が押し寄せる不安定地域
そんなところにいつまでも王家を置くわけないだろ >>270
倭奴国が九州ならその南が邪馬台国
邪馬台国は九州じゃん
だいたい対馬から北東の隠岐の島に出て西に戻って九州築紫に着くて遭難レベル
飛鳥時代の中国て大したことないな劣化したん
そもそもルートより港の築紫使わせてないだろ
頭湧いてるね
>>1
槍みたいだけど
文字入り太刀とかの方が好き
たたら製法とか日本は材料ない分独創性に長けてるよな天才的 誤 : 地面に突き刺す
正 : 古代の魔物を剣で突き刺して封印した この頃の言語って現代人が聞いても理解できる日本語? >>271 >>273
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土してしまって
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」漢委奴国王の
西暦57年の「光武賜以印綬」や
西暦107年の 生口160人を献じ、安帝に謁見した
九州ー対馬ー朝鮮半島のルートと同じ時代に
古事紀や日本書記などに記述されている古代出雲「出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部)」から朝鮮半島へのルートが存在し
古くから、倭の国々が大陸に渡るにあたり、必ずしも、九州と対馬を経由する必要は無かったことが証明されちまったもんだから
九州説は梯子を外されちゃってロマンになっちゃいましたよ(笑)
細かいことは言わないで古代史はロマンですから…筑豊で「卑弥呼連邦」樹立 8市町村が宣言
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201102-00010001-nishinpc-l40 >>242
ええ?稲荷山鉄剣知ってたら大喜びするじゃん。 >>241
天皇という呼称は別として、卑弥呼の時代に
「女王を共立」して連合政権(談合政権)を作ったことは間違いない。
あれに出てくる「弟」や卑弥呼のあとの男王が天皇家の先祖かどうかは不明だがな。
まあ、有力者たちが政略結婚してるから「親戚」ではあったろうけどな。
そういう意味では先祖になるかも。
それなりの「大王」は、少なくとも崇神天皇の時以降だな。
景行あたりか。
景行の母(日葉酢媛)の墓と伝わる佐紀陵山古墳は、各地の前期古墳の相似形と言われている。
日葉酢媛は丹波(たにわ)から来ているし、丹後には巨大な前期古墳がいくつかある。
同時代では奈良以外にこんな巨大な古墳は存在しない。
弥生末期の赤坂今井古墳やその他の重要な遺跡も多い。
その時代、出雲や因幡丹後といった、日本海ルートを仕切る有力者たちがいたと思われる。 この地域って縄文人が好きそうな地形だな。
このあたりまで海が入り込んでたんだろう。
で、西日本には少ない「台地」っぽいのがある。
直ぐ側は「国府」みたいだしな。
田んぼの下を掘ったら貝塚が出てきそうだ。 つーか、続きの土地は古墳じゃないかな?
墓地になってるから、掘り返すことは難しいだろうけど。
弥生の王墓か古墳時代のかわからんけど。 >>235
そこは、出雲の支配地域だ。隣に「因幡の白兎」を囲った。
しろうさぎ ではなく、しらうさぎ だ。
因幡に囲った新羅(シッラ・しらぎ)人の隠語だ。
ワニ(ワニン・倭人=九州邪馬臺〜對馬〜半島南部)
が監理する交易ルート上で密貿易に従事させたわけだ。
この密貿易で新羅地域の鉄を手に入れた。
時々ワニ(倭人)にバレて身ぐるみ剥がれた白兎(新羅人)。
逆に、出雲人には、邪馬臺の大陸への朝貢を背景にした
「倭人」というアイデンティティは無かった事が分かる。 卑弥呼と政略結婚していたなら卑弥呼の名前が他人のように書かれてるのはおかしいわな 2100年前ということは、中国の歴史書に現れる最初の日本の人物、
倭国王帥升よりもさらに二百年前か。 >>60
最近の調査だとヒッタイトは移動先ってだけでもっと北の民族とか言ってたけどな >住宅を意図的に燃やす祭祀
儀式的なもんだろうけど、その集落に侵略したものが行った勝利の儀式のように感じるね
とったどー、みたいな >>290
それはそもそも「邪馬壱」と同じ「台与」の誤刻の可能性の方が高い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています