■■日本の歴史で初めてとなる日本国破滅の本当の戦犯、元凶、は


永遠の国賊天敵仏敵 人類の敵 「 日蓮主義 」
( 日蓮主義 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E4%B8%BB%E7%BE%A9 )


・・・批判する者は粛清する全体主義( ファシズム )思想
ナチス・旧ソ連・中共・北朝鮮 ・日蓮主義


■日蓮主義者が起こした事件
張作霖爆殺事件、満州事変、515テロ事件、226テロクーデター事件、盧溝橋事件、
日独伊三国同盟締結 ➡➡➡ アメリカとの全面戦争突入不可避


その上さらに、戦後も、 1978年(昭和53年)10月17日に、ナチスドイツと同盟締結した国賊共を、戦死でもないのに 靖国神社に合祀した。

この為、昭和天皇は以後の靖国神社への参拝を止めた。
そもそも靖国神社は明治天皇が創建した神社。

A級戦犯のなかで昭和天皇が嫌っていたと思われるのは広田弘毅(絞首刑)、松岡洋右(病死)、白鳥敏夫(獄死)の3名です。
松岡については日独伊三国同盟を結んだ外務大臣であり、白鳥はそのときの駐イタリア大使で松岡のブレーンにあたる人物です。


当時の宮内庁長官富田朝彦による富田メモは以下のような内容です。 

「私は 或る時に、 A級が合祀されその上 松岡、白取までもが

筑波(藤麿 靖国神社宮司)は(合祀しないように)慎重に対処してくれたと聞いたが、
松平(慶民 宮内大臣)の子の今の宮司(松平永芳 靖国神社宮司)がどう考えたのか易々と

松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている 

だから私は あれ以来参拝していない それが私の心だ。」


※ 1978年(昭和53年)に靖国神社がA級戦犯らを合祀するに際して、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が 「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡洋右の合祀に強く抗議した。(詳細は富田メモを参照)

・日独伊 三国同盟 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
・板垣征四郎 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
・松岡洋右 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
・白鳥敏夫 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
・大島浩 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9


■日蓮主義
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
関連人物 --- 牧口常三郎 国柱会や天晴会などの講演を聴講したが、それにあき足らず、「創価教育学会」を設立した。

・・・国柱会 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9F%B1%E4%BC%9A
・・・関東軍 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D

天皇といえども正法(妙法蓮華経)に帰依しない限り「賢王」でありえず、天皇、大臣、国民、そろって南無妙法蓮華経と唱える時こそ、真の広宣流布の時であるという思想である。

字義通りこれは日蓮が記したとされる「三大秘法抄」を忠実に実現させた形であった。

国柱会会員の石原莞爾も天皇より日蓮のほうが圧倒的に偉大だとしている。


■関東軍
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D

・・・板垣征四郎 ( 陸軍大臣 元関東軍参謀総長 熱烈な日蓮主義者 ) 最高指揮官である大元帥 昭和天皇に反逆し、反対者は暗殺恫喝し、ナチスドイツとの同盟推進 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
・・・石原莞爾 ( 関東軍主任作戦参謀 熱烈な日蓮主義者 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

独断で張作霖爆殺事件や満州事変を実行したことは、1920年代からの外交安全保障戦略を現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす契機となった。

なお、満洲事変は、参謀本部・陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、明確な軍規違反であり、大元帥たる昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、首謀者達は処罰されるどころか皆が出世した。