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2020/12/13(日) 08:12:25.64ID:MsrwNYQo9タワーマンションにある「大屋商店」
駅の東口を出ると、真正面にタワーマンションがそびえる。エスカレーターで2階へ上がり、道なりに進むと、飲食店が並ぶ一角に色とりどりの駄菓子が山と積まれている。うまい棒、麩菓子、ソースせんべい、串刺しのイカ、ピースラムネ、あんこ玉、チロルチョコ……。46平米のワンルームに、昔ながらの駄菓子が詰まった箱や袋が棚に敷き詰められ、天井近くまで積み上がっている。その数約200種類に上る。
(抜粋)
コンビニとゲームの登場で転換期を迎えた80年代
やがて大屋商店の息子に思いを寄せられ、25歳の時に結婚して嫁いだ。以来、夫の清さんと問屋を守り続けてきた。当時は木造の2階建てで、再開発によって平成の初めごろにマンションの1階へ移り、そして平成21年に現在のタワマン2階のテナントへ移動した。3年前に清さんが亡くなり、現在は従兄弟ら3人で続ける。従兄の水野雅美さん(62)が、駄菓子屋の時代背景をこう説明する。
「僕たちが小さい時、昭和30年代ぐらいは遊ぶ場所が駄菓子屋しかなかったんだよね。学校から帰ってきたら、小遣いもらって駄菓子屋に買い物に行ったじゃん。でもだんだん子供が減ってきて、コンビニができて、外で子供が遊ばなくなった。ゲームやったり塾ばっかり行って、子供が駄菓子屋に行く時間がなくなったの。今は学校から帰ってみんな駄菓子屋なんて行かないでしょ? それで減ったの。さらに消費税の導入で追い討ちをかけられたんです」
コンビニが日本に登場したのは1970年代半ばだ。以降、80年代にかけて急速に普及した。83年には、家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」が茶の間を賑わせ、注文が殺到して生産が追いつかないほど爆発的な人気を博した。その6年後に消費税3%が導入。「子供からお金を取れない」と反発する駄菓子屋が相次いで話題になった。
バブル崩壊前の80年代はまさしく、駄菓子屋にとって転換期となったのである。
「すんごい駄菓子屋!」という驚きの声が
大屋商店には現在、駄菓子屋の店主や夏祭り、秋祭りのイベント主催者などのほか、一般の買い物客も足を運ぶ。その量に思わず「すんごい駄菓子屋!」と驚きの声が、行き交う人々から漏れ聞こえる。
同じビルに入居する塾の経営者の男性(57)は、毎月1回のペースで駄菓子の買い出しに来ている。
「小学校時代の友人と月1回会って、飲み会をやっているんです。そういう時に、ここに売っている駄菓子を持っていくと、『こんなのあったねえ』と話のネタになるんです。集まる居酒屋も同級生がやっているので、持ち込みも緩く、リクエストがあるとソースせんべいとか買っていきますね」
「子供にとって生活に根差した算数」
話は子供の頃の思い出にも及んだ。
「僕たちは小さい頃、50円玉を握りしめて、どのお菓子を買うのか必死に考えたんです。それも生活に根差した算数だったような気がするんです。5円のお菓子をたくさん買ったり、一点豪華主義の子供がいたり、算数が苦手でもそういう時だけ計算が速い子供がいたり。そういう必死感の中に、お店のおばちゃんとコミュニケーションを取り、飴をおまけしてもらったりしたんです。あれが楽しかった。でも今の子供はスイカでピッとやれば、何でも買えちゃいますからね」
高額で転売する外国人観光客も
日本の駄菓子は外国人にも人気で、成田空港まで京成線1本で行けるという立地条件も重なり、海外向けの需要があるようだ。特に欧米系の観光客はアニメの人気キャラクターが描かれたガムをスーツケース一杯に詰め込み、母国に帰って3〜4倍の値段で売っているという。
街の駄菓子屋は店を畳むか否かの瀬戸際
大屋商店が取引している駄菓子屋は約20店舗。そのうちの1つで、墨田区にある「秋葉商店」の店主、秋葉明衣子さんはまだ22歳だ。夏に亡くなった祖母の後継ぎとして店に立ち、週1回、ここへ買い出しに来る。付き添いで来ていた父親の昌一さん(53)によると、この少子化の中、駄菓子屋を維持するのは難しいため、本当は店を畳もうと考えていた。ところが明衣子さんが「やるよ!」と言い出してくれたため、続けることにした。だが現実問題、駄菓子は利益率が2割程度と低いため、経営状態は厳しいという。明衣子さんが語った。
「どうにか赤字にはなっておらず、ぎりぎりセーフですね。でも私の給料はほとんどありません。『子供から消費税は取れない』という祖母の言葉を守っているので、店が負担しています。雨が降ると子供は来ないし、売り上げが数百円の時もありますね」
詳しくは以下ソースにて
https://bunshun.jp/articles/-/42054?device=smartphone&page=4
https://i.imgur.com/HyQ07Q4.jpg