※統一まで35年

 世界で活躍するプロパフォーマーのちゃんへん・さん(35)が半生をつづった「ぼくは挑戦人」(集英社)が広く共感を呼んでいる。在日コリアンとして生まれ、少年時代、民族差別を背景に凄絶(せいぜつ)ないじめに遭った。苦境の中で出会ったジャグリングに導かれるように世界の扉を開いた。だから聞きたかった。その強さはどこからくるの、と。

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 ジャグリングとの出会いは中学2年になる前の春休みだった。兵庫・西宮のアーケード街。ふらりと寄ったショップ内で、伝説のジャグラーの「映像」にくぎ付けになった。5本のクラブを背面で投げるダイナミックな技。その瞬間、「カッコイイ! 将来は僕も舞台で演技する人になりたい」と決意した。

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 その後、世界中で喝采を浴びるようになった。マイケル・ジャクソンさんや平和運動家のデズモンド・ツツさんらVIPのほか、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長にも芸を披露した。一方で飢餓や貧困に苦しむ国や地域も訪問し、「芸術で世界平和の実現を」と願うようになったが、同時に現実の過酷さにも気付く。南アフリカでは黒人差別がやまず、ブラジルで知り合ったギャングの少年は「銃より鉛筆を握って学びたい」と悲嘆に暮れていた。パレスチナでは目の前で子どもが頭を撃ち抜かれる光景を見た。そしてこう思った。「芸術は、問題解決はできないが、問題提起はできる」

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「ちょうせんじん」を「挑戦人」に

 順風満帆のショー人生。だがジャグリングにたどり着くまでには長く孤独な時間があった。

 在日コリアンが集住する「ウトロ」地区で3歳まで過ごした。両親とも朝鮮学校出身だったが、母の「これからは国際化の時代や」の一声で日本の小学校に進学。そこで筆舌に尽くせぬいじめを受けた。小学3年の給食時間。献立表の「ピビンバ」の説明をしていると、級友が「岡本(ちゃんへん・さんの日本名)って朝鮮人なんやろ?」。この日を境に距離を置かれるようになり、「気づけば誰もしゃべってくれなくなった」。上履きが隠され、イスに画びょうがまかれ、教科書に落書きされた。<ちょうせんじん死ね>

 小学4年。さらにエスカレートする。「朝鮮人」との理由で上級生から日常的に暴力を受けた。ある日の放課後、5人掛かりで体を押さえられ、左腕を彫刻刀で切りつけられた。2日後、校舎上階から石を詰めたバケツが頭をめがけて降ってきた。先生の「危ない」の一声で命拾いしたが、いじめの発覚に恐怖を覚えた。「もっと、いじめられる!」

 この一件で校長室に呼ばれたちゃんへん・さんの母は校長に啖呵(たんか)を切った。「いじめよりおもろいもん教えたれ!」。他方、いじめっ子にはこう諭した。「すてきな夢持ってる子は、いじめなんてせえへんのや」

 上級生が卒業すると、いじめの苦しみは和らいだが、心の傷は癒えないまま。ジャグリングに出会ったのはそんな時だ。ジャグリングこそが「俺のすてきな夢」。そう直感した。

 自殺したいと願うほどにつらかった小中学生時代の経験を踏まえ、ステージのちゃんへん・さんが訴える。「大人の皆さん! 早い段階で子どもの異変に気づいてあげてください。いじめの初期は『何でこんな目に遭わなあかんねん』と割と強気なんです。毎日繰り返されるうちに『生きていたらあかん人間や』と思うようになる。子どもがSOSを発信できるうちに声掛けを!」

 つらい記憶を想起させる「ちょうせんじん」をタイトルにしたのはなぜか。公演後、ご本人に問うとこう打ち明けた。「古い漫画作品の表現をめぐり『当時は……』と書かれたただし書きを見たことがあるでしょう。僕は読む度、思うんです。過去に許された作品を今、差別的だと思うのなら過去より今の社会は良くなっていると。著書タイトルもそれと同じです」

 穏やかな語り口は続く。「今はネガティブな語感の『ちょうせんじん』ですが将来ポジティブに使われていたら、きっと社会は良くなっている」。鋭い問題提起と、切なる願いが込められたタイトル。あなたの受け止め方は読後、どう変わっているでしょうか。【鈴木美穂】

 ■人物略歴

 1985年、京都府生まれ。本名は金昌幸(キム・チャンヘン)。2000年、米カリフォルニア州でのパフォーマンス大会「USフリースタイル・コンテスト」で金メダルを獲得。高校卒業後、海外での活動を本格化し、世界82カ国・地域で公演。10年に豪「第50回ムーンバフェスティバル」で最優秀パフォーマー賞。

毎日新聞 2020年12月11日
https://mainichi.jp/articles/20201211/dde/012/040/004000c?inb=ra
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