【青森】旧制中学時代の太宰治、4年を通じて好成績/青森高校が公開 [nita★]
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2/10(水) 17:08
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Web東奥
青森高校は10日、校内で新たに見つかった太宰治(本名・津島修治)の旧制青森中学時代の成績表を報道陣に公開した。全9種類のうち8種類が初公開。太宰は在学中の4年間を通して好成績を収め、3年次末には学年181人中3位だったことなどが新たに分かった。文系だけでなく理系教科も得意で、運動もよくできていたことが読み取れる。在学中はほぼ無遅刻、無欠席だったとみられ、真面目で優秀だった中学時代の姿が浮かび上がった。
太宰は1923(大正12)年4月、青森高校の前身の旧制青森中学に入学し、27(昭和2)年3月に卒業。当時は5年制だったが、1年早く卒業した。成績表は、各教科・科目の点数や10段階評価が並び、後ろに欠席時数や席次(成績順位)が書かれている。9種類のうち、4年次の学年末の成績は過去に公開されたことがあり、卒業時に学年162人中4位だったことは知られていたが、今回公開された資料で2年次末に191人中7位、3年次末に3位など好成績を常に維持していたことが分かった。
成績表を科目別に見ると、「国語」や「文法作文」は、4年間を通して80点台〜100点。県近代文学館前副室長で同校教諭の西谷ともえさんは「絶対的に作文が得意だったと言われていたが、成績は1位ではなかった」と話す。一方、数学の「代数」は100点を取ったり、10段階評価で「10」になったりするなど得意だったとみられる。「武道」「体操」も好成績だった。
9種類の資料は、学期末や学年末に記録用として作成されたとみられる全校生徒の成績が、学級または学年ごとに一覧になった表のつづり。同校内の教科資料室で4年前、当時の教頭が大正から昭和期の成績一覧が段ボール5、6箱に入れられているのを見つけ、西谷教諭が調査した。
現在の県のルールでは、生徒の成績表は5年間保管した後で廃棄されるが、今回の資料は太宰研究のための価値があると考え、遺族の了承を得て、昨年12月24日付の生徒会新聞「青高新聞」で新資料の発見を発表。全データを掲載し、新聞は在校生や関係者に配布した。資料の実物は今後も同校で保管するという。
同校の宍倉慎次校長は「太宰は幅広い教養があったからこそ、想像力や表現力を磨くことができたのではないか。子どもたちにはバランスの取れた学習をして、文武両道を目指して励んでほしい。太宰という作家を研究する上でも重要な資料になる」と話した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/540d4717b1dc8207995d18031b95e26d10f53930 地方の秀才が東京に出てきてダメになるっていういつものパターンね 青森高校は昔は優秀だったのに最近では加藤智大くらいしかいないからな。 俺も五中卒 といっても小石川ではなく文京区立第五中 父は貴族院議員、兄は青森県知事、妻の父親は帝大卒の地質学者
でもやっぱり本人が一番すごいよな
死後70年経っても売れ続け読み続けられてる文学作品を残したんだから >>5
いや
太宰を知らないなら無理して書かなくても 旧制中学は就業年数は5年な。
4年で旧制高等学校等の上級校に進学できるのは
飛び級みたいなもんでエリートなんだよ。
ウイキ見れば簡単にわかることなんだから、疑問に思えばググろうよ。 1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。
フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。
当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。
太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。
目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。 >>25
記事に書いてあるし、割りと知ってる人も多いが 太宰の家が旅館時代に泊まった事あるけど
要塞みたいな塀が一番印象深かった 上京前から芸者遊びしてるからな
親が甘やかせまくって本人もクズ気質で、あの一家はどうしようもない それに旧制私大は無試験合格みたいなバカ。というのもウソね。
確かに定員に満たずに無試験状態の大学もあったが
それはほとんど専門部の話。予科入学には一応どの大学にも
入試はあった。帝国大学に入学できる旧制高校とくらべれば
易しかっただけで、いまのFランというわけでないよ。
専門部は短大みたいなもので、卒業すると大学に編入できちゃうから
私大はこの手でおバカさんでも入学できた。というのは本当。
ほとんどの専門部が戦後は短大や2部に改変されたが。新制大学に昇格したものも多い。 >>10
中学止まり程度ではエリートではない
やはり高校以上
高校=大学だからな この時代は帝国大学も飛び級有り
出来る奴はバカに付き合わせずぐんぐん前へ進めた ウィキみると出身者として淡谷のり子、三浦雄一郎、寺山修司、佐藤竹善、間宮芳正などの名前が見えるね すごいな 俺なんか義務教育だけで9年もかかってしまったわ 「こんなん履いててプログラミングできるわけない」天才プログラマー登大遊氏が情熱大陸に登場、名言を連発しザワつくTL
http://baxci.infis.net.ru/wxl/232872691.html >>31
おかしくなっても日本文学の礎を築いた。
都会は地方人にとってしがらみから離れられる
天国。おかしいのは地方だろ。 >>20
本当に凄い。
並みの作家は、死ぬと途端に売れなくなる。 >>1
すごいな。長州薩摩枠のバカどもとは大違い。 >>1
そりゃ東京帝国大学に入ってるんだから、そんなもんじゃね >>25
それって、中高一貫の有名私立高校の
高校入試にうかって高校からそこの生徒に
なるようなものか。 >>49
尾崎紅葉も早稲田だし、三田文学と
いうのもあって、有名な人がいたよね。
谷崎は東大だけどね >>60
でも文学部で、しかも人気のない仏文
だからね >>56
自殺を繰り返したのは、自殺をネタに
親から金を引き出そうとしたからだったと
いうふうに猪瀬が書いてなかったっけ? >>31
ばかだな
木綿のハンカチーフ好きだろ。
赤いハイヒールという歌もあるよ。
似てる。都会は辛いところ
ということを、育った家が青山に
あって、財務官僚の息子で慶應義塾中高
に行っていた松本隆が歌詞で書いてる。
でもこれってモデルがあって、松本隆の周囲に
九州から出てきた人がいたんだよ。 一番太宰から遠い(笑)武道が好成績というのは意外だな。
自分が高校の時は1980年代だから柔道の成績はほぼ全員が満点だったが
木村政彦先生などいて最高にレベルが高かった昭和戦前はそうはいかなかっただろうに。 裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったんだ!!倒産みたいに!!
このリア充が!! そりゃ東京帝大なのに成績悪い訳ねえやん。今より入るの難しいのに。 >>57
当時の高校入試とは試験の内容が全然違うから、今の東大生がアホとは即断できないが
答案はすべて記述式で論理的で簡潔明解な日本語を要求されたなど、
今の受験生には少しキツイやり方で出題されたんではないか >>61
違うと思う。当時の高校は今の国立大学教養課程に相当した。
つまらないパズルゲームのような受験テクニック養成は一切やらない代わりに
いきなりドイツの哲学書をドイツ語の原文でよまされたりした。
ネットはもちろん親切な解説書なんてあるわけもない。
それなのに今の大学生よりも年少な人が軽々とこなしていたらしい
素晴らしい小説を書く=人格者って訳ではないのに
持て囃すのはウザイな 人間失格読んだけどメンヘラの自虐風自慢にしか見えない
金はある女にはモテる頭も良いけどつれーわーってなんやこいつと思いながら読んだ >>57
旧制高校卒業してて文学部で学科選ばない(入れりゃどこでもええ!)ならほぼ誰でも入学できたよw >>62
尾崎紅葉は帝大だよ。
中退だけど。
いいとこのお嬢さんと見合い結婚。 私信の手紙は晒され学生時代の成績は晒され遺書は晒され…
また自殺したくなるな >>79
津島家を継いだ兄貴の成績は尋常小学校を除いて悪かったからそれは無いと思われる その後、一校から帝大だったか?
そりゃ、そんなもんだろ。 昭和初期の高専(今の国立大学理工学部)柔道は恐ろしくレベルが高かった。
そんな時代に中学の武道科目で良を取ったなんて、優等生だから下駄を履かされてたとは言え
凄いな。 >>82
なぜ兄弟の扱いが同じと判断したのか。
兄弟の中で大学を出ているのは長兄と修治だけ。
特別扱いの可能性は充分ある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています