380不要不急の名無しさん2020/09/29(火) 00:02:34.05ID:aAcZ+EU/0

【歴史】「新羅から連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来人の祖先に」
朝鮮半島からの渡来人の存在示す遺構、奈良・御所の南郷
柳原遺跡

ヤマト王権を支えた中央豪族として名を残す葛城氏。5世紀ごろ
の王権のあり方を考える上で非常に重要な存在だ。
日本書紀は、その祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)について
朝鮮半島との関わりが深い人物として描いている。
神功皇后5年、襲津彦は朝鮮半島への一時帰国を望む新羅の
人質を引率したが、対馬でだまされ、逃がしてしまった。襲津彦
は怒って新羅の城を落とし、連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来
人の祖先になった--。書紀はこう説明する。


●弘仁新羅の乱 (朝鮮渡来の難民部落の騒乱)

弘仁11年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に
移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱
を起こし、日本人達を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧でき
なかった。
賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
しかし相模・武蔵等七国の援兵が追討した結果、
全員が降服した。

かつて朝廷(日本国)は、すべての流民の新羅人に
口分田まで与えて帰化を認め寛大に遇して恩を与え
たが朝鮮渡来の流民たちは、恩を仇で返し博多など
に土着して本国と違法な交易を目論み、それを見透
かされ東国に移されたことを逆恨みした。

この乱以降、 北九州各地に住んでいた新羅難民は
埼玉、 群馬を中心に関東各地、 東北にも少数住ま
わせる事になった。

182不要不急の名無しさん2020/10/01(木) 08:01:31.73ID:eW70cHiv0

>>175
古墳時代に集団で漂着した逃亡の朝鮮半島の難民はたくさん漂着した
難民キャンプ集落で隔離生活していたので日本人とは交雑する関係もなく
日本の弥生人は朝鮮人とは何の関係もありません

朝鮮半島人は日本人のような水稲文化人じゃなくて肉食畑作文化人だからです
だから共通する文化や風習がなかったから交わりが少なかったのです
その後の古墳時代に朝鮮半島の難民が命からがら半島の凶悪地獄から逃げて来ました
だからそういう部落では農耕が少なく肉皮製品の関係ばかりです