縄文人とは、現在の日本人の基底となったアイヌや沖縄の現代でも顕著な
D1bの遺伝子を持つ日本人の祖先をいう。
髭が濃い目であり彫りが深く、地理的海を挟んで近距離にある朝鮮半島の
形質とは異質でその髭がエビのように長くて立派だということで蝦夷と毛人
という名前で呼ばれ、後の七福神やエビス様や素戔嗚尊も同様の容貌で
あったと記紀に記される。
その後の律令時代までも毛人という名の中央の貴族が複数いる。

縄文人が海川漁労や採集や栽培や狩猟も行い、集落内に縄文土器に象徴されるような芸術家集団を
包摂し、自然と共生する生活をしていたのに対して、朝鮮半島では目立った水稲の水田祉が無く、
陸稲はあったようであるが、長江流域から伝播し持ち替えった弥生倭人とともに水田耕作に着手し
始めていた。
縄文時代は新石器時代の文化・文明で青銅器時代に入って、西日本から縄文文化が色濃い中央高地の
までも新たな文明・文化と呼ぶべき青銅器祭祀が隆盛となった。
朝鮮半島では見るべき青銅器文明の跡が無く、青銅器に刻まれた線刻画も殆んど出土しない。

縄文人は、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。
その精神性の表出としての縄文文化の遺物は欧州で最高の評価を得て、中にはオークションで
億単位の値がつくまでになっている。
自然の豊饒を信仰する日本民族の原形として海外では知られている。

紀元前1000年頃に、以前から交流交易関係にあった長江や越などの水稲文化の
担い手としての倭人、つまり弥生倭人が登場した。定住生活をしながら稲作を行って
食糧を備蓄して生きていき、青銅器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。

現代の考古学では20年ほど前からこうした弥生人と縄文人が情報交換や文化交流が起こり、
それを示す両者の影響を受け合った遺物が多く出土している。
縄文人は弥生人は混血が進み現代日本の原型が約2000年前に出来上がった。

弥生式土器の代表的な遠賀川式土器などは、九州から西日本に広く分布しそれが初期の水田稲作
の西から東への伝播の指標となっており、その担い手は物部系の集団といわれている。

一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。 弥生時代後期のものと考えられている赤い壺であるが、特に朝鮮半島の様式や要素は無い。

その後、こうした種類の土器が日本各地で出土したが、。おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのであるが
水稲稲作文化とともに東進した者である。
2400年前には西日本の多くの地域で本格的な水田祉が見つかり、田下駄や子供の
足跡まで複数見つかっている見つかっている。
朝鮮半島ではそういう遺物は今も見つかっていない。

日本が中国南部や越方面から水稲文化を導入した時代として
有名な遺跡としては、吉野ヶ里遺跡を始め西日本から中部地方まで
夥しい数がある。