「邪馬台国」と「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」

「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は、部下をたずさえて渡来した高名な「シャーマン(巫女)」であった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というような大それたものではなく、当時としては他地域に見られない大集落で、朝鮮半島(母国)からの継続性もあって、
中国と交友を計ろうとする人(朝鮮王朝の一関係者)が含まれていたかもしれない。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたとは思われない。

「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものであり、「魏志倭人伝<3世紀末>」が書かれてから
「記紀<8世紀>」「万葉<7〜8世紀>」が書かれるまでの約400年の間に、九州・近畿いずれにもまとまった記録文献がない。このことは、
「邪馬台国」は現在の日本人が想像しているような国ではなく、文字を書けない者からなる大集落のようなものではなかったと思われる。
アメリカのアパッチ族を高度化したたぐいのものであったかもしれない。

「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」は「邪馬台国」の女王であったということになっている。
しかし、このことについては不明なところが多く、諸説紛々、正確な史料に欠けていると言われている。
従って、彼女については、AD3世紀の史料として扱えないという研究者もいる。

「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、政治は男子がとっていたと言われている。
これは、古代朝鮮の各国の王の筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいたことと似ている。
シャーマンは預言者(祈祷師)として、古代朝鮮の各国の政治の中心人物に含まれ極めて重要なポストにあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ「北方民族(騎馬民族)」の覇権争いによって形成されているので、シャーマンが政治の場に重く位置していた。

朱蒙王の高句麗建国の際にも、女性シャーマンが王によりそい、政治の予言(占い)を行って王へのアドバイスをしていた。
わからぬことがあると、王はシャーマンを呼び相談していたのである。従って、古代朝鮮のシャーマンは相当な勢力をもち、
配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。