https://news.yahoo.co.jp/articles/a9fec45e8fa55ef717c3722060227e9cb3560479

マグニチュード9.0の巨大地震とそれに伴う津波で、1万8000人あまりの死者・行方不明者を出した東日本大震災。それは未曽有の原発事故も引き起こすことになった。震災当時、総理大臣だったのが菅直人衆院議員(74)。水素爆発も起きるなか、「最悪のシナリオ」として5000万人が避難することも想定していたという。10年後のいま、元首相に振り返ってもらった。
東日本大震災から10年です。どんな感慨がありますか。

「あの震災では、津波で多くの人が犠牲になり、避難を強いられ、また、福島第一原発の事故も起きました。地震や津波では物理的な被害で元の住まいに戻ることができず、原発事故では放射線の影響で戻れていません。多くの人が戻れていないことを申し訳なく感じています」

──改めて聞きます。原発事故が起きた3月11日はどんな状況だったのでしょうか。

「津波によって福島第一原発の電源が喪失したのは15時30分ごろ。17時42分に経済産業大臣からその報告を受けたときは背筋が寒くなりました。地震で鉄塔が倒れたうえ、非常用電源となるディーゼル発電機が津波をかぶって動かなくなった。原発で電源喪失とは、冷却ポンプが動かなくなり、炉心がメルトダウンを起こすことを意味します」

「官邸に原発の状況を伝えに来たのは3人いました。東京電力の武黒一郎フェロー、原子力安全委員会の班目春樹委員長、そして原子力安全・保安院の寺坂信昭院長です。保安院は本来、原発の安全管理をするための資源エネルギー庁の一機関です。ところが、院長に状況を聞いても要領を得ない説明でした。おかしいと思って、どこの出身なのかを尋ねると『東大経済学部』だという。それでは、原発の技術も安全の中身もわかるはずないと思いました」

──11日夜には、1号機の内部でメルトダウン(炉心溶融)が始まっていました。

「12日の午前1時ごろ、東電側から連絡がありました。1号機の格納容器の圧力が上がって壊れてしまう、だからベント(一時的に弁を開ける排気)をしたいと。ベントをすれば放射性物質が出てしまうけど、やらなければ格納容器が爆発すると。私からは『やってください』と許可を出しました。ところが、何時間待ってもベントをしたという報告が来ない。武黒氏に聞いても『分かりません』と。この非常事態に東電はどうなってるんだと思いました」

──福島第一原発と東電本店では24時間のテレビ会議がつながっていたはずですが。

「その時点では、テレビ会議の存在は知りませんでした。ベントが遅れている理由も分からない。危機だけは刻一刻と迫ってくる。そこで、現場の責任者と直接話をするしかないと思い、12日の午前6時ごろ、首相官邸のヘリポートから福島第一原発に向かうことにしたのです」

──吉田昌郎所長に会いに行かれたわけですね。

「はい。直接話したのは1時間弱でしたが、行ったかいがありました。はっきり、できるできないを言う人だったからです。吉田所長は『ベントは通常ならスイッチひとつで開くはずですが、電源喪失で弁が開かない』と言いました。『そのため弁の近くまで人が行くしかないが、放射線量が相当高い。作業員が数分刻みで交代しながらやらなければいけない』と。そのうえで、吉田所長は『最後は決死隊をつくってでもやります』と言ってくれた。私はこの人は腹が据わっているなと思い、『分かりました。頑張ってください』と福島を後にしたのです」

「ところが、官邸に戻ってしばらく経った午後に秘書がすっ飛んできて、『総理、テレビを見てください!』と。見てみると、1号機の建屋が水素爆発を起こしていたのです」

──爆発の情報は上がっていなかったんですか。

「テレビ放映は爆発から1時間以上も経っていました。私の目の前に東電の武黒フェローがいたのですが、爆発の情報は伝わっていない。あまりにひどいと思いました。すでに原子力災害対策特別措置法が機能し、通報義務が生じているなか、東電は政府に1号機の爆発まで上げてこなかったのです」

──なぜでしょうか。

「分かりません。混乱もしていたでしょう。実際こんなこともありました。震災初日に電源が喪失した際、『電源車を送ってくれ』というので必死に手配して電源車を現地に送ったんです。『やっと到着した』という連絡が入りほっとしたら、『差し込み口が違う』と。要は、原発に接続するケーブルの差し込み口が電源車のそれと合っておらず、使えなかったのです。その後も『配電盤が海水でやられていてつなげない』という報告がありました。それくらい混乱した状況でした」

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