https://news.yahoo.co.jp/articles/818f1e0b364e69d4e45361f8f0f2a69a83d426d6?page=2


(略)
小田嶋:日本人は何となくなあなあでいくじゃないですか。言いたいことも言わずに何となく「いいや、いいや」でごまかしておくことを寛容というふうに、第一感では思っていますから。ちょうど同じ時期に読んでいた本で、この『事大主義―日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」』(室井康成著、中公新書)というのがあるんですけど、森本あんり先生が前書きなどで指摘している「日本は多神教だから寛容だよ」という思い込みとちょっと通じる話で。

森本:そうですか、最近の本?

――2019年3月ですね。

小田嶋:事大主義、簡単に言えば「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」。場を乱さず力学に従って生きていくのが正しい、というのが、我々がイメージする「寛容」で、それと、ロジャー・ウィリアムズさんみたいにいろいろな人に正論をもって突っ掛かっていく、何だかとても面倒くさい人が、その面倒くさい闘争の果てに、考えに考えてつくり上げた論としての「寛容」。比較すると、我々はまだ寛容の入り口にも立ってないんじゃないかと感じました。

 寛容みたいな、すごくもやっとしたものについて、日本人は「理屈を言うな」という話になるんですよ。

――ありますよね。

森本:ああ、そうか。

小田嶋:「寛容というのは男の度量なんだ」とかね。腹を割って本音を示せばちゃんと腹落ちするんだと。腹落ちって気持ち悪い言葉ですよね。番長と転校生が河原で殴り合いをして分かり合っちゃったりする青春ドラマみたいな、あの分かり合っちゃう感じというのは、我々の中に明らかにある。排除だったり、差別だったり、偏見だったり、難しく語ればいくらでも難しく語れる話を「お互い同じ飯を食えば分かるじゃないか」というね。

森本:僕、これ、ちょっとどうしようかなと思いながら「あとがき」に書いたんだけど……。世論は国語の乱れに「寛容」といわれるが、実はそれは「雑」になっただけだと。これは小田嶋が言ったんだよね。

小田嶋:あ(笑)。

森本:それと同じ筋の話なんです。これまでの日本だったら、事大主義、長いものに巻かれろでやってこられたし、それはそれでいいと思うんですけれど、この本の中でも少しだけイスラムに触れましたよね。

――はい。

●宗教に「寛容」だったのは、周りに少なかったから

森本:イスラム教はこれから全世界で伸びていくんですよ。東南アジアはもちろん、日本にももうすでに身近なところにイスラムの教えを信じる人々がたくさんいるわけです。そういうところで、異質な思想だと排除し続けるのではやっていけないと思うんですよね。

小田嶋:なるほど。

森本:ところが、だからといって「なるほど」とみんな心から共感して、納得して、愛し合う関係になるかって、それは難しいと思う。「じゃあ、どうするか」という問いですよね。

小田嶋:いや、それを本当に最後まで読んだときには、これ、答えをもらったわけではないんだと思って。

 「寛容であろう」とすること自体、「私はあなたに対して寛容であります」ということ、その言い方が「おまえ、いったい何様なんだ」というものをちょっと含んでいるのは、それも言われてみて、なるほど、目からうろこで。日本で今、ポリティカリーコレクトだったり、リベラル思想だったりがえらく嫌われていることのうちの1つは間違いなく、リベラルって偉そうに「俺たちは許してやる」という態度でいるよな、それって気持ち悪いよね、おまえら、俺らを許す権利があるのか、と言われているところだと思うんですよね。それはトランプ大統領を生んだものでも何かあるような気がしてしょうがないんですけれども。

森本:そうですね、本当に。

小田嶋:オバマ大統領に代表されるような「寛容であろう」と努めている人々、それに対して「もういいかげん、うんざりしたぜ」という声がトランプの虎の威を借りる形で出てきたんだと思います。そうして見ると日本なんてそのとば口にも立ってないから、我々は、全然耐えられないんじゃないかという気がします。

森本:でも、これまではそれで曲がりなりにもやってこられて、あんまり問題視してなかったんでしょうね。


(略)