「この野郎、変形させるぞ」40名の不良に特別教育…犯罪常習兵も震えた日本軍“地獄の更生施設” から続く

 戦時中の日本軍には、軍紀違反を重ねる不良兵だけを収容し、“特別教育”によって更生を試みる特殊部隊があった。陸軍教化隊と呼ばれたその部隊には、『利殖競馬入門』などの著書もあるグラフィックデザイナー、金丸銀三氏も入隊していた。

 そもそも軍隊内部で起きた軍紀違反行為への罰則は隊内の営倉(禁錮室)への収容が一般的で、禁錮期間1日〜2日が軽営倉、長期にわたるのが重営倉と呼ばれた。さらに悪質な違反行為があった場合は軍法会議で裁かれ、衛戍地(駐屯地の意)に置かれた軍刑務所(本記事内では「衛戍監獄」)への収監となる。しかし、それでも犯罪行為を続けた不良兵や累犯の脱走兵は、姫路の陸軍刑務所を転用した教化隊へ送り込まれたのだ。

 選りすぐりの不良兵士が集まった“最後の更生施設”では、一体どんな教育が行われていたのか。金丸氏が1970年に「文藝春秋」誌上へ寄稿した「陸軍教化隊・軍隊の地獄部屋」を抜粋して掲載する。(全2回の2回目/ 前編から続く )

 陸軍教化隊は、その前身を懲治隊といい、西郷隆盛が大将のときに、ドイツ陸軍の体制を模範としてつくられたという。懲らしめ治めるところだから、気に入らなければ斬り捨て御免、地獄絵さながらであったとか。

 大正末期、軍隊の近代化とともに、名も教化隊と変えたし、昭和の御代に地獄でもなかったが、ここは戦地なみの特殊地域とされ、戦時逃亡、戦時抗命はその場で銃殺もよし、生殺与奪の権は部隊長にあった。重営倉は衛戍監獄なみとおどかされ、成績がよければ原隊復帰もできるとさとされては、変わり身もいよいよさだまる。ここは一番、いい子でつとめあげよう。

「選ばれた少数」の40人は、3分の2が地方での前科者で、すでに階級は剥奪されているが、兵隊だけでなく将校もいた。全国で1カ所だから海軍の船のりもいる。陸海将兵みな平等に同じ釜のめしを食ったわけだが、起居をともにするのではなかった。同じへやに雑居させては何をやるかわからない。謀議でもされて反乱でも起こされては、と全員が個室住まいである。日本軍隊で兵隊が個室にはいれたのは、営倉でなければ教化隊だけであろう。

島流しにされた“軍隊の神様”たち
 木造兵舎に6畳の広さで、窓には鉄格子、三尺四方の便所はのぞき窓つき、ベッドも中央にあって、普通兵舎の軍曹級だ。食事は普通兵食、起床6時の消灯9時と、そのあたりは軍隊どこでも同じだが、この40人に上官が120人、つまり1人の教化に将校と下士官と兵隊の3人がつきっきりという特別待遇だ。しかも部隊長は中佐で金鵄(きんし)勲章が3つ、以下、軍曹も伍長も全員が金鵄勲章を持っているという精鋭(エリート)ぞろい。いずれも実戦で殊勲を立てた軍隊の神様たちなのだ。衛兵にしても射撃章やらなにやらベタベタの優秀な兵隊が、全陸軍からえらばれて1年任期の派遣兵として来ている。勲章はおろか肩章もないフダツキどもの模範としては、ありがたすぎるくらいのものだ。

 こんなゼイタクをと考えてみると、これは彼らにとっても一種の島流しであったと思われる。軍隊も組織であるからには、神様や田中新兵衛はかえってじゃまだったのではないか。企業でいえば、営業で抜群の成績をあげても管理職になるだけのセンスはない、といったところだろうか。彼らは教化に熱心であり、私的制裁などはまったくなかった。懲らしめたり痛めつけるのではなく、まともな兵隊に鍛えあげることに、一所懸命であったようにみえた。

起床から就寝まで上官3人に監視され……
 入隊すると将校も二等兵も、まず七級という位置が与えられる。六、五、四と上がって一級になればやがて原隊復帰という段どり。ところが、七級から六級へ上がる、いわば行儀見習いの1カ月は、まったくの1人きり、仲間の顔は一度も見られないのである。

 さえぎるものは林の奥にそびえる7メートルのコンクリート塀、そのこちら側で起床から就寝まで、3人の指導監視のもとですごす。午前中は専用の練兵場で演習、小さくても1人には広すぎる。「前へ進め」からはじめて徒歩教練ひととおり、敬礼の稽古をじっくりやって、そのあとが銃剣術だ。ワラ人形を相手に「トッカーン」とやっているうちはいいが、3人の上官がお相手をして下さる。いずれも段持ちの猛者だし、こちらは銃剣術をはじめてやるシロウト、打ってかかれば突き倒され倒れていればたたきのめされる。防具の上からだから「変形」はしないが、それでも全身打撲症状でうめくことになる。

文春オンライン3/31(水) 17:16
 https://bunshun.jp/articles/-/44490