今回、JR小田原駅では法的には対応の必要はないという解釈であった。しかし、JR熱海駅では最終的に駅長が駅員を連れて2日間対応している。どういう事情で熱海駅長が対応したのか分からないが、(障害者の方のために何とか力になってあげたい)という気持ちで臨んだであろう彼らの誠意に対し、コラムを読む限り伊是名氏は一言もお礼を述べていない(実際は言ったのかもしれないが)。

それどころか、「もっと情報を広めてください」と要求を突きつけ、「駅長Dさんは丁寧だったけれども、車いすへの対応をしたことがないようで、まったくわかっておらず、私が質問したら、それを調べ、対応してくれる形だった。車いすユーザーは利用者に入っていないのか。」とコラムに不満を並べている。「声を上げていかないと何も変わりません。しかも声を上げ続け、味方を増やし、一緒に考えてもらい、たくさんの人で動いていかないと変わりません。」と一連の言動の理由を説明しているが、こうした言動が同じ障害を持つ方たちの多数が支持するとは思えない。社会を敵視し、自らの権利を最大化するために要求し続ける行為は健常者からの反感を買い、共生を難しくする結果になりかねない。

 コラムを書いて問題を公にするのは勝手だが、僕なら「一度は断られたのに、熱海駅の駅長さんが無理を聞いて対応してくれた。おかげで楽しい旅ができた、ありがとう。次回からは事前にもう少し調べて、皆さんの負担を少しでも減らせるように工夫します」と書くだろう。それが一般市民の感覚ではないだろうか。彼女が自分の子供たちに「他人の好意に感謝の気持ちを忘れずに」という教育をしていないとしたら、それは大変残念なことである。

■障害者にとってより良い社会の実現のために

 現実の社会では、障害者の福祉にも自ずと限界があることを伊是名氏は知るべきである。そのような制約がある中でいかに自分自身のやりたいことを実現していくか、そのために自分自身も努力をすることが障害者が住み良い社会を実現するためには必要であると思う。そうすることで少なくない数の健常者が「自分たちができることを、できる限りしよう」という気持ちに向き、社会がよい方向へ動くと思う。

 障害者は「可哀想な存在」、「健常者が保護してあげるべき存在」とされて伊是名氏は満足なのか。物理的、精神的なサポートは公的機関はもちろん、我々もできる限りするのは当然であるが、それは障害者が特権や免責を無制約に得ることではない。


 (自分ができることは、自分の責任においてやってください)と言うことは社会の一員としての責任を求めていることであり、障害者を自立した1人の人間として扱っていることに他ならない

 僕はコラムにある伊是名氏の言動を理解できないし、その対応を人として軽蔑する。メディアに連絡する暇があれば、まずは熱海駅の駅長や駅員に「2日間ありがとう」とお礼を言ってはどうか。それが障害者も健常者も区別のない、責任ある大人の態度というものである