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ヤマトタケルの東征(=関東侵略)ルート
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 >日本武尊は上総より転じて、陸奥国に入られた。
 >そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。
 >蝦夷の首領島津神・国津神たちが、竹水門に集まって防ごうとしていた。
 >しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで、
 >「君のお顔を拝見すると、人よりすぐれておられます。きっと神でありましょう。お名前を承りたいのですが」と申し上げた。

 >皇子はお答えになって「われは現人神(天皇)の皇子である」と言われた。
 >蝦夷らはすっかり畏まって、着物をつまみあげ、波をかきわけて、王船を助けて岸に着けた。
 >そして、自ら両手を後に縛って降伏した。日本武尊は、その罪を許された。その首領を俘として、手下にされた。
 >日本武尊は「蝦夷の悪い者たちは罪に服した。信濃国、越国(北陸)だけがすこし王化に服していない」と言われた。


横穴墓の分布と征討軍の地方制圧ルート

 九州は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します。
 景行天皇12年に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は西征に発っています。
 経由地を記すと、娑麼から豊前国、日向国に移り、夷守を経て襲国の熊襲梟帥を討ち、大和に還っています。
 しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。

 太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています。
 日本武尊は景行天皇40年に都を出て、伊勢神宮から東征し、上総国に入り、海路で蝦夷の境に至っています。
 陸奥国の竹水門で蝦夷の賊首、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻っています。

 日本武尊は「蝦夷の凶しき首、 咸く其の辜に伏いぬ。唯信濃国、越国のみ、頗る未だ化に従わず」と述べています。
 東国が平定されても、信濃国と越国は大和王朝には従っていないことがわかります。
 このように、征討軍のルート上に横穴墓が分布し、その結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。

■ 第8図 景行天皇の九州行幸 第9図 大和武尊の東征
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