>>807
日本の朝廷は韓半島からの外来者には厳しい対応をしていた。
外来者の筆頭格はもちろん天日矛。
垂仁帝の初期に、天日矛が播磨国に来て大友主と外務官が査問している。

その後も新羅の王族に対しても、殆んどの申し出を撥ねつけているが、
これは同時代の出雲祖的存在と言える野見宿禰と奈良盆地南西部で
勢力を強めつつあった半島渡来の当麻蹴速の天覧相撲の顛末にも
当時の外来者に対する朝廷の厳しい態度がうかがえる。

これは第七代孝霊天皇皇子の吉備津彦による百済人鬼の征伐と
同じ構図といえ、天日矛の場合は出石の民に迎えられることに
なったが、百済鬼の方は征伐されたが、妻の阿曽がその窯茹で
祭祀を引き継いだが、本来の日本の神とは関係はない。

天日矛に戻るがその妻、赤留姫については、天日矛の家庭内暴力と
モラルハラスメントからの日本への帰郷であるが、古代では新羅の
王族に嫁いだ倭国の姫もいたということかもしれないが、姫に御付きの
倭国人の家来が得意の船でアカル姫を逃がし、そういう事例が少しは
あったというころであろう。
場合によっては、朝鮮半島の姫が日本に逃げ込んでくる事実など
かなりの件数あったのかもしれない。
記紀等の資料には現在の海上保安庁のような任務を司る海人族がいたということが
記録されているが、古代から海洋国家だから当然だろう。