【神奈川県】開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの廃線跡を探索 [砂漠のマスカレード★]
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大船〜湘南江の島間(6.6km)を結ぶ湘南モノレールが、2021年7月2日に全線開通50周年を迎える。筆者は現在、湘南モノレールの公式サイトにて、全線開通50周年記念連載「湘南モノレール全線開通までの全記録」を連載中である。
ところで、かつて大船駅を起点とするもうひとつのモノレールがあったことをご存じだろうか。大船駅からドリームランド駅(横浜市戸塚区俣野町)まで結んだドリームランドモノレール(ドリーム交通が運営)である。
同路線は1966(昭和41)年5月2日に開業したが、わずか1年半後の1967(昭和42)年9月24日に運行休止した非常に短命な路線だった。間もなく開業から55年が経過するドリームランドモノレールはどのような路線だったのか。わずかに残る資料を頼りに、その歴史をたどり、廃線跡を探索してみることにする。
■ドリームランドモノレールが建設された理由
そもそもこの地になぜ、モノレールが敷設されたのだろうか。その理由として、「日本最大の遊園地」と称された横浜ドリームランド(敷地面積約132万平方メートル)が1964(昭和39)年8月にオープンしたものの、最寄りの大船駅から5km以上も離れており、アクセスの悪さがネックになっていたことが挙げられる。
バス・タクシーだけでは輸送力が限られるし、途中で国道1号をクロスしなければならなず、渋滞も予想された。したがって路上交通と分離した別な交通手段が必要だったわけだが、丘陵地帯が広がる大船(鎌倉市)北部や横浜市戸塚区の西部は山坂が多く、通常の鉄道を敷設することが不可能に近かった。そこで、簡易な構造物のみで建設でき、輸送力も比較的大きく、さらにゴムタイヤで登坂力にも優れたモノレールが採用されることになったのである。
当時は我が国でモノレールが脚光を浴び始めていた時期でもある。日本の大手メーカーが海外のモノレール先進企業と提携し、さまざまなモノレール技術を輸入していた。
具体的には、日立製作所が西ドイツ(当時)のアルヴェーグ式モノレール(後に東京モノレール羽田線などで採用)、日本エアウェイ(三菱重工が中心となって設立)がフランスのサフェージュ式モノレール(後に湘南モノレール、千葉都市モノレールなどで採用)の技術を輸入するなどし、研究が進められていた。
ドリームランドモノレール計画の入札には複数の企業が手を挙げたが、採用されたのは東芝式だった。この東芝式は、アルヴェーグ式をベースとしつつ、車体と台車を完全に分離したボギー連接台車構造とするなど、独自の改良を加えたものだった。
東芝式が採用されたのは、先行開園した奈良ドリームランドのモノレールで成功していたことが決め手となったのだろう。奈良ドリームランドのモノレールは1961(昭和36)年7月1日に開業。地方鉄道法(現・鉄道事業法)によらない遊戯物扱いではあったものの、円周軌道上(0.84km周回)を最大安全速度40kmで走行するという実用レベルに達したものだった。
https://i.imgur.com/fOEvyAR.jpg
ドリームランドモノレールは「ドリーム号」「エンパイア号」の2編成が運行されていた(提供 : 横浜市史資料室)
ドリームランドモノレール建設の過程
1964(昭和39)年8月にドリームランド線の敷設免許が下り、以後、東芝が車両と電気設備の製造(車両のボディ部分は東急車輌が製造)、三井建設が軌道の設計・建設を担当し、総工費約25億円をかけて建設が進められた。大船駅からドリームランド駅までの路線総延長は5.3km。両端の駅のほぼ中間地点に、交換所(すれ違い場所)である小雀信号所と変電施設を設けた。
このモノレールの建設過程に関しては、神奈川新聞が何度か記事にしている。まず、1966(昭和41)年1月26日付の記事で、モノレール計画の全容をわかりやすく書いているので、少し長いが全文を引用する。
4/11(日) 14:03
https://news.yahoo.co.jp/articles/de6e5b9e869c16920330ada267d66aa556b4046f
https://i.imgur.com/8cXZ01j.jpg
https://i.imgur.com/CVSwEYF.jpg
https://i.imgur.com/VzCseGj.jpg
https://i.imgur.com/NCWKSmh.png
https://i.imgur.com/3Zhc3Hm.jpg
https://i.imgur.com/YhMrc9u.jpg
https://i.imgur.com/UaPDJl0.jpg 大船駅〜横浜ドリームランド五・三キロを結ぶモノレール建設工事は総工費二十五億円をかけて着々進んでいるが戸塚区原宿町一〇二〇さきの幅四十メートルの東海道をまたぐ路線架設工事が二十五日深夜から二十六日未明にかけて行われた。
この工事で全路線の建設は八分どおり終わり、三月上旬に試運転、ゴールデンウィークの四月二十九日から開通の予定。
モノレール線建設は三十九年初めドリーム交通の手でドリームランド入園者と付近の住民の輸送を目的として計画された。将来はさらに小田急線長後駅まで三・六キロ延長する計画。
使われる車両は“馬乗り型”一編成三両で乗車定員は百二十五人、最高速度は六十キロで全線を十分間で走る。料金は片道おとな百七十円、こども九十円、往復おとな三百円、こども百五十円の予定。
この路線は山あり谷ありの急こうばい続き、起伏に富んだ半ばケーブルカーのようにながめのよい乗り心地を楽しめることになるという。
単線路線のため小雀浄水場に上下線の待ち合わせ所ができ、将来はここに途中駅を作るという。(1966年1月26日付の記事より引用)
続いて、同年3月23日付で、モノレール建設計画がかなり強引に進められた様子を読み取れる記事が掲載されている。 ドリームランド懐かしすぎる。衛兵さんのイメージしか覚えとらんが。 たまには向ヶ丘遊園のモノレールも思い出してあげてくださいね 湘南モノレールをそのまま伸ばせば良かったのに(´・ω・`) 鎌倉市農業委員会の調査特別委員会は二十二日、モノレール建設中の戸塚区ドリーム交通会社・松尾国三(原文ママ)社長に対し、再び工事の中止勧告をした。
理由は、鎌倉市関谷地区を走るモノレール建設工事にさいし、農地法を無視して許可前に工事を始め、工事中止の勧告を無視してどんどん工事を進めているというもの。(中略)同委員会は「農地法を全く無視している大資本に対し徹底的に追及する。農地法は国法であり、国法を無視するやり方はけしからん」と憤慨している。
また、鎌倉市と戸塚区境(大船駅近く)の柏尾川には、直径二メートルもあるコンクリート柱が川の真ん中に突き立てられて水の流れの障害となっていると住民から反対の声があがり、これを許可した県当局の態度までが批判されている。
この地点は大雨が降ると流れが速く、いつもはん乱して川岸の民家を水びたしにしている。三十六年六月の大洪水でも市民は痛めつけられた。(1966年3月23日付の記事より引用)
ドリームランドおよびドリーム交通の松尾國三社長は、旅役者から立身出世し、興行界やレジャー関連産業で幅を利かせた名うての人物であり、目黒の雅叙園観光ホテルなどを経営していた。役人が何を言おうが、どこ吹く風といった感じだったのであろう。
■ドリームランドモノレールの開業と挫折
こうして1966(昭和41)年5月2日、ドリームランドモノレールは開業したが、その後の運命を示すかのように、初日からトラブルが起きた。 『横浜の鉄道物語』(長谷川弘和著)に記されているところによると、この日に開業することを新聞で知っていたので、開通記念乗車券を買いに早朝から大船駅に並んだが、一向にシャッターが開かない。シャッターを激しく叩くと駅員が出てきたので、尋ねると、「まだ認可されていない由で、認可があり次第開通する」とのことだったという。なんとものんびりした話ではあるが、前述のように強引に工事を進めていたから、役所との連絡もうまく取れていなかったのかもしれない。結局、開業初日にモノレールが運行されたのは、夕方からわずか4時間くらいだったようである。
その後、ドリームランドモノレールは思わぬトラブルに見舞われることになる。車両のゴムタイヤがたびたびパンクし、さらに軌道桁のコンクリートにひび割れが生じたのだ。原因は、設計ミスと伝えられる車両重量の過大であった。
横浜のモノレールは、奈良のモノレールをベースに大型化を図ったのだが、最急勾配100‰(パーミル。100‰は1,000m走るごとに100m上る)という難所にも対応するため、モーターをより大型のものに交換し、またカーブとアップダウンが多い路線に耐えられるように、連結器をはじめとする各部品を頑丈に作った。その結果、当初は3両固定編成で重量30トンの予定だったものが、実際に計量してみたところ、45.78トンにもなっていたという。乗車人数の制限など行ったものの、危険を十分に回避できないとの東京陸運局の勧告を受け、開業からわずか1年半後の1967(昭和42)年9月、運行休止に追い込まれた。
なぜ、技術的にかなりの自信を持っていたはずの東芝が、このような初歩的な設計ミスを発生させたのか。おそらくは技術陣に焦りがあったのであろう。 東芝が奈良ドリームランドのモノレールを開業させたのは、前述したように1961(昭和36)年7月であり、これは国内の跨座型モノレールの第1号だった。つまり、東芝はライバルに先んじてモノレールに着目していたのである。それにもかかわらず、地方鉄道免許による路線開業において、日立の犬山遊園モノレール(1962年3月開業)に先を越された。また、自らも設立に出資した日本エアウェイのサフェージュ式では、三菱に主導権を握られた。さらに川崎航空機も、1962(昭和37)年9月以降、同社岐阜製作所構内に試験線を設け、ロッキード式モノレールの実用化に向けた実験を開始しているような状況だったのだ。
その後、横浜ドリームランド周辺はベッドタウン化が進み、園の敷地の一部が「ドリームハイツ」という住宅地になったことから、通勤・通学の足としてモノレール復活の要望の声が大きくなったが、復活への道は険しかった。
モノレールの構造物は野ざらしのままになっていたが、運行休止から約20年が経過した1988(昭和63)年、横浜ドリームランドの経営がダイエー系列に移ったことで変化が訪れた。1995(平成7)年6月、常電導磁気浮上式リニアモーターカー(HSST)導入によるモノレールの運転再開が決まったのである。当時の計画では、1997(平成9)年に着工、1999(平成11)年の開業を予定しており、実現すればHSSTの実用路線として世界初となるはずだった。
しかしその後、ダイエーの経営悪化にともない、2002(平成14)年2月に横浜ドリームランドが閉園。モノレールの廃止も決まり、2005(平成17)年6月に廃線跡の構造物撤去工事も完了。“夢の跡”も、ついに消え去った。 大船駅からドリームランド駅跡地へ、廃線跡をたどる
後半はドリームランドモノレールの廃線跡を探索してみよう。当時の地図を見ると、国鉄(当時)大船駅入口から柏尾川沿いを北へ300mほど行った場所にモノレールの乗り場があった。駅跡は現在、鎌倉自動車学校南側のマンションになっている。
大船駅を出発したモノレールは、すぐに柏尾川を渡る。対岸の丘陵の崖に沿って、しばらくの間、ちょうど鎌倉市と横浜市の市境上を走っていた。横浜市栄区側の「長尾台けやき公園」付近に行くと、丘の上に三菱電機の旧寮が見える。近所の人に話を聞いたところ、寮の建物のすぐ下あたりをモノレールが通過していたという。
さて、今度は大船観音の南側から栄光学園方面に回り込み、丘の上にある玉縄5丁目の住宅地に行ってみる。この玉縄5丁目の住宅地の北辺は、両市の市境とほぼ一致している。つまりモノレールの廃線跡とも一致しているのだが、廃線跡は藪になっており、地形的なものを除けば、痕跡はまったく残っていなかった。 横浜ドリームランドの跡地に向かって
モノレールは玉縄の丘陵上を駆け抜けた後、いったん谷を下り、県道312号(田谷藤沢線)をクロスする。場所は神奈中バスの面谷戸(おもてやと)バス停から50mほど藤沢寄りの交差点付近である。
ここから再び丘を駆け上がるようにして、現在の「九つ井 山の上ギャラリー」の後背を通過。モノレールの軌道は小雀浄水場の北側へと抜けて西進し、小雀公園テニスコートの道路際を通過していた。その先の農地の一画に、上下線のすれ違い場所である小雀信号所があった。
信号所の先でモノレールは国道1号をクロスし、現在のパチンコ店の敷地を通過して、市民の森である「ウィトリッヒの森」の南西を巻くようにして宇田川沿いに出る。このあたりまで来ると、かつて「ホテルエンパイア」だった和風高層建築(現在は横浜薬科大学図書館棟)が見えてくる。
宇田川の川岸を北進したモノレールは、韮橋(にらはし)の手前で川をクロスし、今度は北西に進路を取り、上り勾配を駆け上がって、終着のドリームランド駅へと向かう。
ドリームランド駅跡地は現在、「俣野公園・横浜薬大前」バスロータリー南側に位置するドリームビルの駐車場になっている。付近一帯の横浜薬科大学、ドリームハイツ、俣野公園(墓苑を含む)の敷地が横浜ドリームランドの跡地だが、名残といえば、横浜薬科大学の図書館棟くらいしかない。
さて、ドリームランドモノレールの廃線探索、いかがだっただろうか。いまとなってはモノレールの痕跡がほとんど残っておらず、廃線跡探索を楽しむには、昔の写真を頼りに想像力をフルに働かさなければならないが、それもまた廃線跡探索の醍醐味である。
ちなみに、ドリームランドモノレールの廃線跡は5.3キロと、数字だけ聞けば短く感じるが、山あり谷ありのコースである上に、大きく迂回しなければコースをたどれない場所も多く、実際にはかなりの距離を走ることになる。本気で踏破するならば電動アシスト付自転車をレンタルするのがおすすめだ。参考までに、湘南台駅周辺に電動アシスト付自転車が借りられるシェアサイクルスポット(HELLO CYCLING)が複数あり、湘南台駅から俣野公園(横浜ドリームランド跡)まで3.6km、自転車なら約15分でたどり着ける。 ディズニーランドはできる前はドリームランドが県下1番人気だった なんかひょろひょろとした
心細い橋桁の残骸が沢山残ってたのは
覚えてる。
地域の人達の噂は「構造計算を一桁
間違えてたので、強度が保たれないので
廃線になった」だった。 >>4
ガキの頃沿線に住んでたけど、音がうるさすぎて廃止して住民はみんな喜んでた >>1
ドラマ映画のアクション物ゾンビ物の撮影に使えばいい これはCIAマター
日本の軍人やら偉人の銅像が鎮座したから潰された 平成くらいになれば重量制限内に収まる軽量車両を作れたんじゃないの 子供の頃あったな、モノレール。
藤沢原宿湘南台戸塚周りは人と物の行き来が縦横斜めなのに交通のラインが糞渋滞の糞コクイチ頼りで未だにクソ。 高校の遠足がここだったなあ
わざわざ都内から行ったのが意味判らんが
イッツ・ア・スモールワールドのパクリのと、潜水艦か思い出深い 子供の頃この廃線の上を歩いたことあるわ。
いまは線路跡地に住宅が建っている。 中高時代に通学で大船駅通る度にモノレール駅の残骸を見てたな
なんか堪らない虚無感溢れてたな、昭和時代の話だが
原宿手前の線路跡はかなり後まで残ってたよな
懐かしいなあ 確か運行している時の車内の動画があったはず。
まだようつべにあるんかな? 30トン計画が47トンって
東芝無能か?
戦闘機開発だったら、あり得ない話 ドリームランド線が無理なら
代わりに湘南モノレールを伸ばせとずっと思っていたな >>20
そうなんだw
当時何回も乗っていったのでゴメンナサイ。 そういえば、姫路モノレールも川のど真ん中にポツンと橋脚が立っていたなw
当時はああいう強引な建て方でも小スペースで済むと云う発想だったのかな?騒音問題もガン無視で後から収拾がつかなくなったというのもネタ過ぎる。 HSSTはドリームランドモノレールとか桃花台新交通とか失敗した路線でやろうとして結局やらなかったパターンばっかだったな
リニモでやっと実用化されたけど ドリームランドは小学生の頃は楽しめた
それよりもドリームランドが出来た経緯が驚くこれは調べて知るべき 市内に元関係者がやってるリサイクルショップがあって
当時配ってたチラシとか売ってたw そんなことより貴様ら!もしも姫路モノレールが計画通り鳥取まで伸びてたら、どうなったと思う? 廃線跡って全国あちこちにあるけど、廃滑走路跡ってどこかない? >>44
開発元のロッキードが撤退してるんだからどのみち先がない 無許可工事とか、開業当日になっても許可が下りないとか、
重量オーバーとか、
1960年代の昭和はすごい適当な時代だったんだな 同じく戸塚駅からバスで行くとこに戸塚フィールドアスレチックってのもあったな子供の頃なのでどのへんにあったか知らんけど >>46
甲子園浜の海の中にあって
干潮時に残骸が出現する >>46
廃じゃないかも知れないけど、
絶対に使われてないだろうなってのが
富士川の河口にあるよ (・∀・;)ドリームランドにあった古いゲーム機は何処へ 高齢化の5ちゃんねらでもこのモノレールに乗ったという人はレアだろう >>20
駅前は中央分離帯
なぜか川沿いは住宅街の方にレールがあったね大通りの方に持っていけばいいのに >>55
ワシの頃でもシャトルループはすでに有ったからね へーいへいへい、へーいへい♪
横浜ドリームランドネタなのにヘイヘイおじさん関連の発言がないとは、な。 >>46
愛川町の内陸工業団地は昔飛行場だったらしい
ランウェイレイアウトはわかりませんけど >>51
磯子にもアスレチック場あったよなあ。上大岡には釣り堀 >>1
記事を読むと経営者と東芝どちらもおかしいな 廃線後を語るのは20年おせーよw
ゼロ年代初期までは軌道が残ってたのにな 名古屋には城北線という1時間に1本、1両でディーゼルの高架を走る列車がある
運用するだけ赤字だろあれ何で作ったって、バスで十分だろ
結局老朽化は避けられないしメンテや再建となったらまた莫大な費用が発生する >>50
リニモが確か重量オーバーで止まったことがあったような
流石に無許可工事や開業時に認可されないとかはむちゃくちゃ感あるが ヘイヘイおじさんがヘイヘイ言いながら運転すればよかった >>64
潜水艦と海賊ツアーはマスト
シャトルループが宙返り初体験
以来絶叫マシンが大好物になって
つい最近も志摩スペイン村の3種乗ってきた 社宅の前のレールを上を歩くのが
子供の間でよくやられていたが、
今見たら仰天物だな >>1
開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの起点・大船駅で、鉄道写真を撮影の際は、下記の決まりを遵守願います。 インスタ映えすること請け合いです。
■◇◎◇■◇□◎撮り鉄の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・お天気の良い日に、背後に太陽のある角度で、連写せずに一発撮り、つまりバリバリ順光でサクッと「バリサク」で撮りましょう。
決まりその2・列車の側面を7・前面を3の比率で撮れるよう、つまり「シチサン」で列車が収まるように、立ち位置をしっかり決めましょう。
決まりその3・大好きな列車です。列車が構図いっぱい「カツカツ」になるようにズームしまくりましょう。
決まりその4・主題はあくまでも鉄道車両です。画面の真ん中に、つまり「日の丸」のように堂々と入れましょう。
決まりその5・撮影地での撮影前には、下記の撮り鉄のお題目を復唱し、正統的な鉄道写真が撮れるようにしっかり復習しましょう。
バリサク・シチサン・カツカツ・日の丸
バリサク、シチサン、カツカツ、日の丸
バリサク・シチサン・力ツ力ツ・日の丸
バリサク、シチサン、力ツ力ツ、日の丸
バリサク。シチサン。力ツ力ツ。日の丸。
バリサク,シチサン,力ツ力ツ,日の丸
バリサク.シチサン.力ツ力ツ.日の丸
バリサク*シチサン*力ツ力ツ*日の丸
■◇◎◇■◇□◎三脚の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・三脚を使って撮影する撮り鉄は、手持ち撮影に慣れてない「初心者」ですから、あたたかく見守ってあげましょう。
決まりその2・撮影地ではベストポジションで撮影したいものです。事前に「置きゲバ」して自分の場所を確保しましょう。
決まりその3・置きゲバした三脚が自分のものだとわかるように、“熊出没注意”とか“弱冷房車”といったシールを「ベタベタ」貼って、しっかり目立たせましょう。
決まりその4・置きゲバに使う三脚は、他の撮り鉄に盗まれたり壊されたりしてもいいように、「安物」を使いましょう。
初心者・置きゲバ・ベタベタ・安物
初心者、置きゲバ、ベタベタ、安物
初心者。置きゲバ。ベタベタ。安物
■◇◎◇◇◇□◎火車拍照的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・在美好的一天,讓我們在幕後以一定的角度拍攝一張照片而不進行連續拍攝,也就是説,讓我們快速拍攝直射陽光“上低音薩克斯風”。
規則第2部分・讓我們決定站立位置,以便列車可以在“7:3”處進行,以便列車的一側可以在7處,前部以3比率進行。
規則第3部分・這是我最喜歡的火車。讓我們放大火車,使它“幾乎”充滿了構圖。
規則第4部分・該主題是一輛鐵路車到最後。讓我們把它放在屏幕的中間,就像“日本國旗”。
規則第5部分・在拍攝地點拍攝之前,讓我們回顧下面拍攝的拍攝對象並仔細檢査,以便拍攝合法的鐵路照片。
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風,7:3,炸肉排炸肉排,日本国旗
■◇◎◇◇◇□◎三脚架的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・用三脚架拍攝拍攝鐵是一個不習慣手持拍攝的“初學者”,所以讓我們熱情地觀看。
規則第2部分・我想在拍攝地點拍攝最佳位置。讓我們提前“提前”確保“你的位置”。
規則第3部分・正如可以看出哥巴三脚架的地方是他們自己的事情,密封件,如“熊出沒注意”或“弱空調車”“黏黏”,讓我們堅定地站在。
規則第4部分・讓我們使用“便宜的東西”,以便用於你的位置的三脚架可以被其他射撃鐵器盗走或摧毀。
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者。你的位置。粘粘。便宜的東西 >>1
開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの起点・大船駅で、鉄道写真を撮影の際は、下記の決まりを遵守願います。 インスタ映えすること請け合いです。
■◇◎◇■◇□◎撮り鉄の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・お天気の良い日に、背後に太陽のある角度で、連写せずに一発撮り、つまりバリバリ順光でサクッと「バリサク」で撮りましょう。
決まりその2・列車の側面を7・前面を3の比率で撮れるよう、つまり「シチサン」で列車が収まるように、立ち位置をしっかり決めましょう。
決まりその3・大好きな列車です。列車が構図いっぱい「カツカツ」になるようにズームしまくりましょう。
決まりその4・主題はあくまでも鉄道車両です。画面の真ん中に、つまり「日の丸」のように堂々と入れましょう。
決まりその5・撮影地での撮影前には、下記の撮り鉄のお題目を復唱し、正統的な鉄道写真が撮れるようにしっかり復習しましょう。
バリサク・シチサン・カツカツ・日の丸
バリサク、シチサン、カツカツ、日の丸
バリサク・シチサン・力ツ力ツ・日の丸
バリサク、シチサン、力ツ力ツ、日の丸
バリサク。シチサン。力ツ力ツ。日の丸。
バリサク,シチサン,力ツ力ツ,日の丸
バリサク.シチサン.力ツ力ツ.日の丸
バリサク*シチサン*力ツ力ツ*日の丸
■◇◎◇■◇□◎三脚の決まり■◇◎◇■◇□◎
決まりその1・三脚を使って撮影する撮り鉄は、手持ち撮影に慣れてない「初心者」ですから、あたたかく見守ってあげましょう。
決まりその2・撮影地ではベストポジションで撮影したいものです。事前に「置きゲバ」して自分の場所を確保しましょう。
決まりその3・置きゲバした三脚が自分のものだとわかるように、“熊出没注意”とか“弱冷房車”といったシールを「ベタベタ」貼って、しっかり目立たせましょう。
決まりその4・置きゲバに使う三脚は、他の撮り鉄に盗まれたり壊されたりしてもいいように、「安物」を使いましょう。
初心者・置きゲバ・ベタベタ・安物
初心者、置きゲバ、ベタベタ、安物
初心者。置きゲバ。ベタベタ。安物
■◇◎◇◇◇□◎火車拍照的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・在美好的一天,讓我們在幕後以一定的角度拍攝一張照片而不進行連續拍攝,也就是説,讓我們快速拍攝直射陽光“上低音薩克斯風”。
規則第2部分・讓我們決定站立位置,以便列車可以在“7:3”處進行,以便列車的一側可以在7處,前部以3比率進行。
規則第3部分・這是我最喜歡的火車。讓我們放大火車,使它“幾乎”充滿了構圖。
規則第4部分・該主題是一輛鐵路車到最後。讓我們把它放在屏幕的中間,就像“日本國旗”。
規則第5部分・在拍攝地點拍攝之前,讓我們回顧下面拍攝的拍攝對象並仔細檢査,以便拍攝合法的鐵路照片。
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風・7:3・炸肉排炸肉排・日本国旗
上低音薩克斯風,7:3,炸肉排炸肉排,日本国旗
■◇◎◇◇◇□◎三脚架的規則■◇◎◇■◇□◎
規則第1部分・用三脚架拍攝拍攝鐵是一個不習慣手持拍攝的“初學者”,所以讓我們熱情地觀看。
規則第2部分・我想在拍攝地點拍攝最佳位置。讓我們提前“提前”確保“你的位置”。
規則第3部分・正如可以看出哥巴三脚架的地方是他們自己的事情,密封件,如“熊出沒注意”或“弱空調車”“黏黏”,讓我們堅定地站在。
規則第4部分・讓我們使用“便宜的東西”,以便用於你的位置的三脚架可以被其他射撃鐵器盗走或摧毀。
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者,你的位置,粘粘,便宜的東西
初學者。你的位置。粘粘。便宜的東西
、 >>72
いや、その客が乗りすぎて重量オーバーと、
車両がそもそも製造段階で重量オーバーは違う。 >>79
車両が重量オーバーか…そりゃわけが違うわ
すまんかった 未知なるカダスの地にもモノレールが出来たのか…感慨深い(´・ω・`) まだ残ってたらドローンでレール追っかけ撮りとかしてそうだったのに・・w 小学生の時に通っていたそろばん塾の遠足は多摩テックか朝霞テックか横浜ドリームランドだったな
全部無くなってしまった >>69
たしか城北線は償却が終わるまでは設備投資するとその分使用料が上がるとかで最低限の施設で運用してるんじゃなかった? むかし大船駅の前にホームの跡が延々と残っていて大船に到着するたびに気になってたな
モノレールの軌道は高い山を超えて続いているのが見えたね
ずっと休止状態で放置してあったからまさか撤去されるとは思ってなかった >>46
漏れの通っていた小学校の運動場が元は軍需工場の滑走路だったな。セメントで固めたような地盤にうっすらと砂をおっ被せただけのグラウンドだったから、転ぶと痛い上に高確率で流血する恐ろしい運動場だったぉ。
あれで体育が大嫌いになったw ちなみに周辺は普請の度に不発弾と人骨がゴロゴロでてくる始末w 栄光へ通っていたので
モノレール跡地は通学路として歩いた記憶がある。分譲地、当時はまだ家が建っていなかった、の外れからコンクリの軌条に乗れた。大船駅近くの社宅の辺まで行けた。
TOSHIBAは仕事で関わったことがあるが
ダメ企業だったな。 モノレールの設計者が、「車両に満員の乗客を乗せた時の重量」を計算に入れてなかったんだよな
そんなの当たり前に考慮すべき基本中の基本なのに >>46
滑走路はかなり広いもんだから廃止されたら農地あたりに転用されて地形からしか読み取れないのが普通
例外的によく残ってるのが加古川の北の加西市にある紫電改のレプリカのある飛行場 え、1年半も運行してたの?
地本の都市伝説ではエアコン乗せたら重量オーバーで橋脚にヒビ入って終了とか >>18
商店街の売り上げのためにはあそこで止めておくのがいい 鉄道空白地帯でその後住宅地になっていたからちゃんと改良して再開していたら儲かったろうな あの辺住んでいたから廃線跡があるのは知っていたが
長後延伸の話は初めて知った
今は呉服屋のおかげですっかり寂れた長後にも未来のある時代があったんだな… なつい
実家が近くなんだよね
いつだってガラガラでこのまま潰れることなく続いていくと思ってた
駐車場は車に乗って見る野外映画館があったな
なつい
近くいったらただで見れたなつい 設計ミスさえなければ、新しい商圏を作るぐらいのポテンシャルは余裕であったろうに なつい通信隊の荒涼とした空間抜けて山に入る
団地と五重塔が出てくると
夢の国さ
なつい
あの頃に戻りたいな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています