戦前の旭川は陸軍の師団があって軍都と呼ばれていた
路面電車があって賑やかな街だった
日露戦争でも旭川の師団は多くの犠牲者を出しながら活躍した
終戦後に占守島に侵攻してきたソ連軍と交戦しニチロのカニ缶詰工場の女工が避難を終えるまでの間にソ連軍を押しまくり女工全員が離島を終えた後にソ連に降伏した陸軍の主力が札幌の師団の指揮下にあった旭川の部隊だった
他には満州から移動してきた戦車第11連隊(士魂部隊、現在では恵庭の自衛隊第11戦車隊がその伝統を引き継いでいる)
航空戦力は陸軍飛行部隊の一式隼戦闘機と美幌の海軍航空隊の97艦攻
米軍相手だとかなりの劣勢だった日本軍だが敗戦を受けての撤退準備中の国籍不明の軍隊による攻撃に困惑しつつも、
本土防衛と女工を守る為にソ連軍に徹底抗戦し日本側を大幅に上回る大損害を与えた
旭川の部隊と士魂部隊による勇猛な突撃、海軍の97艦攻によるソ連艦艇に対する攻撃を陸軍の隼が直播し多くの艦艇に大打撃を与えた
ちなみに大戦中に陸軍機と海軍機の共同作戦は極めて少なく当然この戦いがその最後の例となった
既に第一線を半ば退いていた旧式の97艦攻は果敢に低空での攻撃を繰り返し戦果をあげるも隼による直播も虚しく被弾
次々と火を噴きながらソ連艦艇に突入していった

そんな軍都も今や元民主の市長と立憲民主の衆院議員を輩出する革新系の街になってる
左翼や新左翼がオルグするのは労働者や学生だろうがエリアとしてはかつての軍都の斜陽の街を赤く染める方が革命の成功に近づくという感覚だったんだろ
大量の北教組教員や国労組合員が幅を利かせる街になり北海道教育大学旭川分校も設置された
昭和後期から平成初期にかけては自衛隊員を成人式に参加させないという基地外対応を市役所が行うなどシベリアの凍土の下に眠る英霊達の魂さえ否定されるような街に成り果ててしまった