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事件は大正4(1915)年12月9日に始まった。
三毛別の奥地、六線沢には15軒の開拓民の家があり、
その家々から男衆が橋桁材の伐採搬出作業のため出払っていた。
その間、家の留守を女性と子どもが預かっていた。

初めに犠牲になったのは太田家に預けられていた子ども、蓮見幹雄だった。
さらに家にいたはずの太田マユが見つからず、
捜索隊が結成されたが、彼らは捜索の途中でヒグマと遭遇する。

この時、ヒグマは彼らから離れて行ったため、
事なきを得たが、ヒグマが出現したすぐ近くのトドマツの根元からマユの遺体が見つかった。そ
れは足と頭の一部がかろうじて残っているだけだったという。