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2021/05/03(月) 11:25:00.08ID:a7VL+OhW95年前に74歳で病死し、来日して東京五輪を観戦する夢はかなわなかったが、信念を曲げずに政治的混乱を乗り越えた生きざまを表現する言葉の数々、日本と強い絆があった選手時代の写真や五輪メダルなど思い出の品が展示されている。彼女が愛した「日本のサクラ」も展示品に彩りを添えるデザインでちりばめられた。企画展は5月30日まで。(共同通信=田村崇仁)
▽東京五輪で人気を誇った「名花」
「日本人の心」を愛し、東京で咲いた「名花」は日本国民の絶大な人気を誇った。亡くなる2年前の2014年、チェコのプラハでインタビューする機会に恵まれたが、当時も華のある美しさは変わらなかった。1964年東京五輪の思い出を聞くと「日本の観客は遊び心があって、ウルトラCに挑戦すると大きな拍手で喜んでくれた。演技の芸術性を見てくれた」と笑顔で振り返り、美しい「体操ニッポン」の象徴だった東京五輪男子個人総合王者の故遠藤幸雄さんら日本選手団との強い絆を懐かしんだ。競技面で強い影響を受けて練習したという遠藤さんとの写真も飾られている。
▽メキシコ五輪ではソ連に無言の抗議
「私は競技中も最後まで諦めませんでした。人生もスポーツも同じだと思っています。そして人生にはスポーツ以上に多くの敵がいます」
華やかな競技生活の一方、波乱に満ちた人生を物語る印象的な言葉も紹介されている。
1968年の「プラハの春」で母国の民主化を支持する「二千語宣言」に署名したことで長らく政治的弾圧を受け、職を失うなど苦難を経験した。「プラハの春」弾圧のために侵攻したソ連軍から逃れ、68年メキシコ五輪直前には山小屋に潜んで練習。個人総合2連覇のほか種目別で3種目を制し、民主化の機運に盛り上がる国民を勇気づけ、スポーツの枠を超えた人気を手にした。
着用した黒いレオタードはソ連への抗議の意志を示していたとされ、金メダルを分け合った種目別床運動の表彰台では会場に響くソ連国歌に顔を背け、無言の抗議を行った。
「五輪では政治的な行為は慎まなくてはなりません。だからぎりぎりの線を考えて顔を背けました」との言葉も写真とともに掲載されている。
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2021年5月2日 10時00分